「私の作文教育」 その3 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年
第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その1 P-36
私は、「序章(導入)」に次のように書いた。
文章は、他者に読ませてその人に影響を与えるために書くものである。
書き手である私は、既に知っていること、既に考えていたことを材料の一部分として書くのである。
しかし、その文章を読む者は、まだ知らないし、考えてもいない。だから、読ませて効果が得られるためには、簡単に手短かに書いたりしてはならない。いわば、少しずつ角度を変えながら、わからせるのである。少しずつ内容をずらして、多面的に知らしめるのである。
こういうゆっくりと少しずつ移っていく文体ならば、読者は疲れない。どこかで、わからない所、読み落としや誤解が有っても、読み進むうちに解釈が成り立つ。修正される。
この逆に簡潔でくり返しが無い文体では、ちょっと読み落としたり誤解したりすると、とたんn文章自体が理解できなくなる。これでは緊張しつづけねばならない。疲れて困る。
つまり、進行の速度がゆるやかで、くどい反復も有る冗長な文体でなければならない。くどく、しつこく書くべきである。
第二章 「過程作文(発想作文)」・「編集作文」 その1 P-36
私は、「序章(導入)」に次のように書いた。
文章は、他者に読ませてその人に影響を与えるために書くものである。
書き手である私は、既に知っていること、既に考えていたことを材料の一部分として書くのである。
しかし、その文章を読む者は、まだ知らないし、考えてもいない。だから、読ませて効果が得られるためには、簡単に手短かに書いたりしてはならない。いわば、少しずつ角度を変えながら、わからせるのである。少しずつ内容をずらして、多面的に知らしめるのである。
こういうゆっくりと少しずつ移っていく文体ならば、読者は疲れない。どこかで、わからない所、読み落としや誤解が有っても、読み進むうちに解釈が成り立つ。修正される。
この逆に簡潔でくり返しが無い文体では、ちょっと読み落としたり誤解したりすると、とたんn文章自体が理解できなくなる。これでは緊張しつづけねばならない。疲れて困る。
つまり、進行の速度がゆるやかで、くどい反復も有る冗長な文体でなければならない。くどく、しつこく書くべきである。