盛岡市内丸のもりおか歴史文化館に行きました。
実は金払って入館したのはこれがはじめてだったりします。
入り口には盛岡藩領の前史として645年から1600年までの盛岡の歴史と、南部領のディテール。
古地図で陸奥の国を見ると青森県東部(と言うか大間崎・尻屋崎)から岩手県中央部(北上・遠野・釜石)までが南部領となる。これは陸奥の北3分の1は南部領だったということですね。
そしていよいよ御城下へ。まずは新山舟橋、今の明治橋のところにかかっていた船を繋いだ橋です。
現在、舟橋と船着場があった場所に下町資料館があります。よかったら見てください。但し休みの日しか空いてませんが…
その後城下二十八丁の話(材木町や肴町、青物町がそれにあたる)など見て、盛岡城コーナーへという時に、小野寺瑞穂さんによる盛岡弁昔ばなしがまもなく始まりますよ、というアナウンス。
場所は近代の町家をモチーフにしたスペース(これは後で説明します)でした。来ていた人は比較的母よりお歳を召された方が多いようで…
ここで小野寺瑞穂さんについてご説明。
盛岡弁の語り部として知られ、岩手県内ではめんこいテレビ「山海漬」のナレーターとしてもおなじみ。その柔らかみのある声質は優しい波平さんみたいだなと思います。
まずは畑中館長(この方も盛岡弁の達人として有名)からご挨拶。
その中で県外人から「あなた、語り部の方ですか?」と言われたことがある、と言う話。確かに県外の人から見れば畑中さんも語り部に見られるのかなぁ、と思います。でも「語り部」というのは盛岡じゃねぇぞ!と心の中で思うのです(むしろ遠野でしょ)。
小野寺さんのお話は3つ。
①「わからない手紙」
昔、沢内村の山奥に住んでいた若者が、盛岡城下で見聞を広めようとしていた。
日も暮れて、どこに泊まろうかとした若者は、ある大店に泊めてもらえることに。そこで歓待を受けた若者はとんちんかんなことをメモしてしまう。
その後帰ってきた若者は、ある家で事故に遭遇。医者に手紙を書いたが、城下で覚えたとんちんかんな言葉が列挙された手紙を医者が読めるはずもなく、若者は赤っ恥を書いてしまった。
②「婆様の見た極楽」
昔、若い夫婦と暮らす婆様がいたそうだ。
若い夫婦は年老いた婆を山に捨てようと決め、「極楽へ連れて行く」ともっこ(骨組みだけのリュックと考えてください)に婆を乗せていった。
山の崖の上で婆の息子は婆を突き落とすが、婆は藤蔓につかまって無事だった。
夜、お堂で一夜を明かそうとした婆は、山賊たちの酒盛りを目撃。そこで銭や金品も見てしまった。
お堂から出た婆は傷だらけで、山賊たちはヤマンバだと勘違い。銭や金品を置いて逃げてしまった。
翌朝、婆は山で極楽を見たといったが、それを真似した息子夫婦は崖から落ちて一巻の終わり。
③「ケラ売り爺様」(ケラ=蓑、雨具の一種。蓑虫や隠れ蓑の蓑はここから来ています)
ケラ売り爺様は、マダ(シナノキ)の皮をはいでケラを作り、それを街で売って生活してたど。
ある日爺様の前に大男が現れた。ひしゃくのようなキセルに火をつけたり、いろいろやっていると、大男が負傷していたのを見て処置することに。
この処置に感謝し、大男は何かお礼したいと言うことになったが、商売道具をほったらかしにする間の悪さ…おまけに三日三晩ひきこもり。
数日経って爺様は商売道具を忘れたことに気付く。その時大男が夜になってマダ皮を爺様の家に持ってきてくれた。さらに春には山菜、秋にはキノコやクルミ・栗を届けてくれた。
こうして爺様は裕福に暮らすことができた。まさに「どんどはれ」=ハッピーエンド。