見出し画像

大善人へ身魂磨き

小野篁

末娘は百人一首が好きで、私も幼い頃好きだったなぁと札をみると思い出します。意味がわからなくもお気に入りの札が何枚かありました。

上の句が詠まれると下の句がスラスラでるくらい暗記していました。かなり忘れましたが、言葉の流れのようなものは微かに記憶に残っており、最近背景を含め味わってみると、なかなか面白いことがわかりました。


以前、大変美しかったともいわれる小野小町について書きましたが、小町の祖父にあたる小野篁について、今日は書いてみたいと思います。


なかなかの逸話のある人物で、非常に興味深いです。昨日まで紹介しました室町時代に書かれた鴉鷺合戦物語の糺の森にいる「糺の神」ついて、小野篁も平安時代に和歌で詠んでいます。


人知れず心糺の神ならば思ふ心を空に知らむ

新古今和歌集


なかなかの和歌の達人で、孫の小野小町も祖父譲りだったのでしょうか。小野篁の百人一首の歌はこちら。↓↓


わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟(『百人一首』11番)


訳)広い海を、たくさんの島々を目指して漕ぎ出して行ったよ、と都にいる人々には告げてくれ、漁師の釣り船よ。


この和歌は、小野篁が、嵯峨天皇(平安時代初期の天皇)の怒りを買って隠岐島に流罪になった際に、詠んだ歌です。


この流罪の理由はです。


小野篁は3回遣唐使に参加しようとしますが3回とも失敗、断念します。危険を伴う遣唐使ですから、成功は難しいのですが、3回目は乗船にあたり、納得がいかない事がおこります。


遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船することになるのです。

これに対して篁は、「己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できない」と抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否します。


遣唐使は篁を残して6月に渡海しますが、のちに、篁は『西道謡』という遣唐使の事業を、ひいては朝廷を風刺する漢詩を作ります。

その内容は、本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであり、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐国へ島流しにしたのです。


篁の筋の通った男気を感じます。正しい、と思ったことはたとえ相手が巨大な勢力でも、巨大な利権が絡もうとも、物申すという感じでしょうか。


そういえば、以前、小野篁が御祭神の神社と知らず、東京都町田市にある小野神社に妹が参拝したようです。妹は別の小野神社に行く予定が間違えた、、と笑っていましたが、神社参りには間違いはなく、必然で導かれたのかもしれません。


おかしいことをおかしいと言ったら左遷される、政治家とか組織とかは長いものには巻かれよ、、が当たり前。

自分可愛さのため、思っていても言えない。

何かおかしいぞと気付きながらも、都合の悪いことは隠蔽する。何か物申す事が和を乱すのではなくて、他者の意見と対立した意見を言ったとしても、それで分断して戦うのではなく、そこから意見をヨリアワセ、より良い方へお互い糸口を見出し糺(ただす)ことが良い社会を創造する気がしています。

何も言えない、言わない方が良い、口をつぐむ、周りの意見に流される、それは、なんか違う気がしていします。


小野篁は明法道に明るく政務能力に優れていました。また、漢詩も中国の白居易と対比されるほどであり、和歌に関しても有名な和歌集に何首も入集しています。書においても当時天下無双であり、字の美しさは中国の王羲之に匹敵するともいわれました。後世に書を習う人は皆手本としたといわれています。孫に書の神様、小野道風がいます。




また、非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたようです。そのため、家は貧しく、危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされています。




身長は約188cmもあったようで、なお、当時(平安時代)の男性の平均身長が159.5 〜163.5cmだったから、凄く存在自体も迫力がある御方だったのでしょうね。渡来人だったのでしょうか。


ところで、嵯峨天皇との逸話に面白いのがもう一つあります。昔古典が好きでこの話は読んだ事がありましたが、小野篁のことだったんだ!と今結びつきました。


嵯峨天皇が「無悪善」という落書きをみつけ、篁が書いたのではないかと疑い、読めと篁に命じます。篁はなかなか応じません。


さらに天皇が強要したところ、篁は

「悪さが(嵯峨)無くば、善けん」

(「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意)と読んだのです。


天皇は、これが読めたのは、やはり、篁自身が書いたからに違いないと非難します。

激おこぷんぷん丸🤬な姿を想像します。笑。


すると、篁は自分は「どんな文章でも読めますよ、、」(私が書いたと何故言い張るのですか?)と弁明したため、

では「子子子子子子子子子子子子」を読めと嵯峨天皇は篁にいいます。


すると、篁は「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解きます。

その際は、事なきを得た話が宇治拾遺物語に残っています。


嵯峨天皇と何回かやり合っていたのですね。


相手が天皇であれ、忖度しない姿、その多才さ、機転の鋭さなど、とても魅力に溢れた御方だと思いました。



つづく

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「神仏について」カテゴリーもっと見る