私と妹の聖地巡礼の旅は淡路島、沼島から奈良の葛城山に向かいます。奈良の葛城山は役小角や、カモ族に大変縁があります。
淡路島には、聖徳太子が波間に漂う箱を見つけ、太子は箱の中の如意輪観音像を祀った話があります。
時代は代わり如意輪観音様のお告げのままに西宮の六甲山に入り、空海さんの協力を仰ったのが真名井御前です。真名井御前は神呪寺で修行をし、空海より剃髪を受けて、僧名「如意尼」となります。真名井神社に縁が深い龍女のように感じます。
空海は如意尼をモデルに桜の木で如意輪観音像を彫ります。
如意尼は、女人禁制の修験の山「大峰山」(修験道と女人禁制について )に登り、21日間の行を成し遂げた神女ですが、この山の開山は役小角です。
聖徳太子⇔役小角⇔空海と点と点が繋がります。
淡路島巡礼後、奈良の葛城山、カモ族に縁の深い神社をこの日、何社も訪れることとなりましたが、最初は、妹が高鴨神社にどうしても行きたいと言ったことからでした。それ以外は成り行きに任せてです。
高鴨神社は賀茂神社の総本宮であり、役小角に縁のある地だから是非行こう!と淡路島を出て奈良に向かいます。その次の日は、予定をしていなかったのですが、如意尼や空海にも縁深い六甲山にも足を運ぶこととなりました。
奈良ではまず葛城山の一言主(ひとことぬし)神社を参拝します。3時は過ぎていました。
この、葛城山ですが、もとは賀茂山だったようです。黒須氏の著書、役小角によりますと、
「天照国照彦火明命と人々から崇められてきた饒速日大王の神霊は葬り去られた。三輪山をはじめ各地に祀られていた饒速日の名は地下に潜った。そして雄略に代わり、これと婚姻関係を結んだ葛城氏がこの賀茂一族の地を奪い、賀茂一族の霊山賀茂山も名前を変えて葛城山にしてしまった。それ以来、葛城氏に変わって蘇我氏がこの地に来るまで、賀茂一族は葛城氏の役民(えだちのきみ)として隷従させられてきた。」
とありました。役小角の「役」は「えだちのきみ」の役で、賀茂一族は、役小角の生きた時代にはかなり冷遇されました。
役小角が鬼と呼ばれ差別された人達と共に生活したこと、苦しむ民を救いたいと奔走したこと、また饒速日大王の復活を願ったのも、時代背景を考えると納得できる気がします。
実は、私と妹は一言主神社に参拝する予定はありませんでした。ナビにうつったあと妹のテンションが上がり直感に導かれ参拝することとなりました。
一言主大神は、「言葉」の力を司る大神であり、紀・記の両書ともに雄略天皇条にその伝承を見ることができます。
⭐️この一言主神と雄略天皇については以前ブログで紹介しています。
「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神、葛城の一言主大神ぞ」(『古事記』)「言い離つ神」は、原文では、「言離神」🟰「コトサカノカミ」、「コトサカ」とは「事解」とも書き、言葉によって物事を解決するという意味があるようです。
つまり、一言主大神は悪事も善事も一言のうちに解決する力ある神、力ある言葉の神、また何事も解決する万能の神として、ただ一言の願いでもその言葉を疎かにせず聞き届ける神として、広く万民に信仰される神ともなります。
また、社伝によれば、一言主大神は大国主神の御長子である八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ)と同一神であるとも伝わります。エビス様(ヒルコ神)ですね。
天津神より大国主神が国譲りを問われたとき、大国主神はその判断を御子である事代主神へ託しました。そして事代主神は天津神へただ一言国を譲り隠れるべきことを告げられ、自らその言葉通りにお隠れになりました。
事代主神(一言主神)は誠道に従い有言実行を示された言行一致の神として、また事代主神の言葉の導きに大国主神を始めとした全ての国津神たちが従ったために、力ある託宣の神としても信仰されるようになりました。
つづく