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大善人へ身魂磨き

十牛図 第8図「人牛倶忘」

第8図は、「人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」、自分のことも忘れるです。牛も自分も周りの景色もないこの図を見ていると、静かな海や、雲の無い空を思います。




空(娘撮影)


ただ、この境地はもうどんな境地か本当にわかりません。至っている方に教えてもらいたいくらい。笑。想像すらつかない。


自分の全体像が掴めて、私は悟った、なんて思ったりする段階でも全く無くて、もう自分「我」でる事が全くないとことんまで、我を滅した世界。虚空と呼ばれる世界かも。本当に何ものにも自分にも囚われない境地。こんな境地に生きながら到達する方は稀有な存在ですね。



自分の価値観が自分に良く作用して、迷いをふりはらったり、行動を改善させたりしても、まだまだ自分「我」あるうちは、自分の考えは絶対だとどこかで思うものかも。説教したり、説得しようとしたり。そんな段階でなく、かといって放任ではなく、深い深い愛を持って静かに観る感じかなぁと思ったり。


揺れる振り子の真ん中の偏らない点。


自分では確かなものだと思っていることでも、しがみつかず手放してみようかなぁ。解らない境地を想像しても解らないものはわからない。


 

 仏さまがいる世界にいつまでも遊んでいることはない。さとりの心にとどまれば、「さとり」ということに迷ってしまう。仏さまのいない世界ならば、なおさら、さっさと走りぬけていきなさい。

 



「さとり」にさえ囚われない境地を悟っていない段階で語ることはなかなかハードル高いです。悟りも何度もありそうですし。



 持っていたムチも、牛をつないでいた手綱も、自分自身も、牛さえも、何もかもが消えてしまった。

 青空が、はるか遠くまで広がっていて、出した手紙はどこまでいっても届きそうもない。

 真っ赤に燃える炉のなかに、どうやって雪をたくわえておくことができるだろうか。

 ここまできて、ようやく達磨大師(だるまだいし)の教えにぴったり同じになるのである。



ところで、達磨大師が九年も座禅した事によって手足が腐ってしまったという伝説があることから、玩具として手足がないダルマが作られています。しかも転んでも常に真っ直ぐ起き上がるだるまを縁起物として必勝祈願なんかに使う方もいます。


達磨大師は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされています。伝説かもですが、壁観は「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことのようです。






不動心。空。海。陰陽の接着地のようにも思えてきます。




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