大阪からでもさすがに遠いので、なかなか訪問する踏ん切りがつかなかったのですが、久々の行動制限なしのGWで時間のある機会に参拝させていただきました。中国自動車道の山崎ICを降りて以降は、揖保川沿いに左右を山に挟まれた絶景の中、快適に走っていると程なくして当社前にたどり着きます。神社入口の真ん前に、道の駅「播磨いちのみや」があるのでアテにしていたのですが、レストラン1件と土産物屋があるくらいの小規模な施設でさすがに混雑しており、駐車は少し難儀しました。あと、どうしても見たかった社叢の全景を拝見する為、東側の少し登ったところにある「スポニックパーク一宮」から眺望を堪能させていただきました。
少し入って鳥居があり、神門の先で左に折れます
【ご祭神・ご由緒】
主祭神が 大己貴神で、「播磨国風土記」の伊和大神と同じとされます。また配祇神として、少彦名神と下照姫神がお祀りされます。社伝の語る創建時期は、成務天皇甲申年(144年)もしくは欽明天皇二十五年(564年)、大神の託宣によって伊和恒郷が社殿を造営したとします。この時、二羽の白い鶴が北を向いて眠っていたので北向きに社殿を建てたとされ、現在も本殿の裏にそれにまつわる「鶴石」があるのです。また、天平宝持年間に恒郷の後裔恒雄が神領を寄進したとも伝えられます。
境内入口
「播磨国風土記」に見える伊和大神はすこぶる活動的だと、「日本の神々 山陽」に浅田芳郎氏が書かれています。餝磨郡二か所、揖保郡三カ所、宍禾郡五カ所、神前郡二か所などの揖保川流域を中心に、市川の東岸にも痕跡を残します。特に、゛国を占めた時゛と言う表現が揖保郡香山里・林田里、宍禾郡の伊加麻川及び波加村に見られ、その支配権の確立を示していると、浅田氏は云います。また、「播磨国風土記」での伊和大神の系譜には、許乃花奈佐久夜比売との間に生まれた阿賀比古・阿賀比売神、伊勢津比古・伊勢津比売神、石竜比古・石竜比売神、玉足比古・玉足比売・大石神、建石敷命がいるほか、「峰相記」は与位明神、己勝明神、安志姫大明神、若邇志明神、庭田明神らを゛皆これ眷属の部類なり゛としていて伊和明神の支配権の厚さを傍証するに足ると考えられています。
社殿は、拝殿・幣殿・本殿と北を向いて連なります。本殿は改修中でした
【神階・幣帛・祭祀氏族等】
当社の記録としては、「新抄格勅符抄」805年に゛播磨伊和神十三戸゛などと見えるのが最初です。「三代実録」859年には゛播磨国伊和坐大名持御魂神に従四位下を奉授す゛とあり、881年になると゛伊和坐大名持御魂神に正四位下を授く゛と神階が上がっている事がわかります。「延喜式」神名帳では宍粟郡の筆頭に「伊和坐大名持御魂神社」として名神大社に列せられました。
拝殿。慎重な狛犬がマスクをしていました
祭祀氏族は、一般に「播磨国風土記」餝磨郡伊和の条に、゛積嶓(しさわ)郡伊和君等の族が到来してここにいたので伊和部と名づく゛と見える伊和君一族とされます。伊和の地名は同じく宍禾郡に、゛石作里。本の名は伊和。土は下の中。石作と名付ける所以は、石作首等がこの村にいる。故に庚午の年に石作里とした゛゛伊和村。本の名は神酒(みわ)。大神がこの村で酒を醸された。ゆえに御酒(みわ)村という云々゛とあり、伊和君一族の居住地が宍粟郡を中心として伊和大神の伝承地と重なる事を傍証するものと、先の浅田氏は述べておられます。この一族が記紀など古代文献に全く登場しないのは、かなり早い時期に中央勢力の支配が及んだからと見られるようです。なお、のちの社家大井祝は伊和君の後裔と伝わります。
幣殿。前角に鶴の置物がありました。向こう側にも違う形のものが有ります
本殿。屋根は見えませんでしたが、庇の透かし彫りが確認できました
【鎮座地、比定、発掘遺跡】
鎮座地は、揖保川など古くから陰陽を結ぶ交通の動脈上にあり、中国山地寄りながら比較的広い谷間の平地になっています。そのほぼ中央に、あたかも池の中の小島のような森がくっきりと浮かぶように横たわっていて、当社はこのもともとあった天然の樹林に創始されたものにちがいないと、先の浅田氏は考えます。森の総面積は16098坪と言う広大なもので、杉の巨木を始め、檜・榊・樫・樅・栂・栗・椿・桜など多くの種類の木々は1500本を優に超えるとされています。
社殿向かって右手の、夫婦杉(左、根本が重なる)と神殿殿
当社が鎮座する一宮町やその周辺は、考古学的にも古くから開発されていたことが分かっています。早い時期では縄文時代早期の押方文土器が出土していて、以降も前期から中期を経て後期に及ぶ一連の縄文土器が採取されています。弥生時代には人口が増加し村落共同体が形成されていたことが分かっており、伊和神社から同緯度で西方に近接する閏賀の西山からは銅鐸も出土し、当社との何らかの関係性が指摘されています。続く古墳時代の遺跡も散在し、円丘状の一つ山古墳の存在や、南方の伊和遺跡では住居跡から小型丸底土器・手ごね土器に双孔円板・滑石製の勾玉・小玉などの祭祀遺物が検出されています。以上は全て、伊和神社創始の歴史的背景を物語るものだと、浅田氏は述べられていました。
播磨十六郡神社 西八郡
播磨十六郡神社 東八郡
【社殿、境内】
本殿が北を向いている事が当社の最も顕著な特色と見られていますが、これについて国文学の荒木良雄氏は、゛あるいは伊和部族が、その祖神大名持の御魂を祭るに際して、その祖国である方向を懐かしみ選んだのではなかろうか゛と述べています。さらに荒木氏は、1773年の境内図に見える本殿の形式が出雲大社様式の踏襲である事を重視されて、゛出雲部族の移動進出路線の証拠゛と説明されています。その大社式本殿は創建当初からと思われ、それが1862年の再建の時に何らかの事情で現在の「入母屋造」に改変されたと見られます。当社が山陰と山陽をつなぐ主要交通路線上に有る事を考えると、出雲大社との社殿の類似は荒木氏の見解も含めてさまざまな観点を示唆すると、浅田氏は考えておられました。
五柱社(天照大皇神、国底立大神、宇賀魂大神、猿田彦大神、須佐之男大神)
御霊殿(伊和恒郷命、旧神戸村殉国の英霊二百八十二柱)
【祭祀・神事】
有名な特殊神事として、「一つ山祭」「三つ山祭」があります。姫路の射楯兵主神社にも同じ名前のお祭りがあり、山奥深い当社から移したという話がありますが、姫路の方は人為的に置山を作るのに対し、当社は自然の山を祭祀の対象とするなど形態は異なります。「一つ山祭」は、当社の東北方向にある宮山の頂上に旗を立てて本社から遥拝する儀式で、二十一年に一度行われます。次回については、境内に来年令和六年と告知する張り紙がされていました。一方、「三つ山祭」の方は六十一年毎に行われ、当社の周囲を囲む伊和三山~北方の花吹山=鼻先山、東方の白倉山、西方の高畑山~の頂上にある磐座を同時に祀る神事です。期間は3月1日から20日間で、この間本殿を御開帳し、だれでも直接参拝が出来ます。前回は昭和59年に実施されたようなので、次回まではまだ20年以上あります。
社務所左の中庭にあるのが大杉
【伝承】
大元出版の東出雲伝承で、当社は幾度か取り上げられており、一貫してこの地が古くから出雲文化の影響を受けていたと説明されています。大名持は出雲王国の主王の役職名(大国主命はその内の一人)なので、「延喜式」の正式神社名がその事をよく表しているようです。そして、弥生時代中期頃の大和で、出雲族と丹後勢力(アマ~海部・尾張氏)の共同勢力が形成されて以降は、出雲と大和の間の政治・文化の中継地になったらしいです。だから神酒(みわ)と三輪は語源が同じと言えそうです。そうなると、伊和神社の地で祭祀が始まったのは、大和で出雲族が三輪山を祀った後の時期だろうと思えて、付近で出土した銅鐸がそれをあらわしていそうです。
一方で伊和の名は、「出雲国風土記」の琴引山のくだりを引き合いに、そもそも出雲の岩神信仰から来ていると出雲伝承は説明しています。そんなこの地も、「播磨国風土記」に書かれた天日矛命と大名持命の争いで日矛の子孫の勢力に奪われ、さらに大吉備津彦命と若建吉備津彦命の攻略を受ける事で、出雲人の元から失われてしまったらしいです。記紀に伊和君の系譜が書かれないのは、そんな事情からなんだろうという感じがします。出雲伝承では、この地域に出雲族の住んだ痕跡の一つとして、建石敷命を祀る神前郡福崎町の二之宮神社とその背後の神前山の磐座を取り上げていました(「出雲王国とヤマト政権」)。なお、埼玉県にも出雲伊波比神社があるなど、出雲の岩神信仰は今も広く痕跡を残しているように見えます。
本殿真後ろの鶴石
【梅原猛氏の見た出雲】
哲学者の梅原猛氏は「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」で、「播磨国風土記」の記述やこの地の訪問を通じて、゛播磨には、深くオオクニヌシの影が差し込んでいる。そしてそこにはオオクニヌシ王国の滅びの原因が密かに語られている゛と書かれています。2010年に出版されたその本では、古代出雲王朝がどのようにして滅びたか、史実として確かなことは全く分からないとしつつ、「日本書紀」における国譲りの主なる使者が、物部氏の神を思わせる(香取神宮のご祭神)フツヌシであり、「出雲国風土記」にも、ところどころにフツヌシの話が語られる事から、出雲王朝を滅ぼしたのはニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない、とのお考えも述べておられるのです。
梅原氏は昔、「神々の流竄」で出雲神話を大和で起った物語を出雲に仮託したものとする説を出されていました。しかし梅原氏は出雲の荒神谷遺跡などの大量の青銅遺物に触れ、「葬られた王朝」の最後をこう締めくくっておられました。゛「私は間違っていました。改めて(オオクニヌシノ)ミコトの人生を正しく顕彰する書物を書きます」と固く誓って、出雲を後にしたのである゛
゛池の中の小島のような森がくっきりと浮かぶように横たわる゛社叢
(参考文献:伊和神社公式ご由緒掲示、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 山陽」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)