小田山忠霊堂・葦名家花見が森廟所・宝積寺・恵倫寺・・・
25年度、地域の歴史・史跡などの現地学習、最終回は小田山山麓の史跡探訪12-1・・・
小田山忠霊堂・葦名家花見が森廟所・宝積寺・恵倫寺・建福寺・善龍寺・大窪山墓地・小田山史跡・・・
陽ざしには恵まれなかったけど雨に遭わず史跡探訪を終えることが出来ました。
小田山とは・・・(史跡等案内看板)
鶴ヶ城の東、間近に見える山の一つで、鎌倉時代から安土桃山時代にかけて約400年、
会津の地を治めた葦名氏の本拠地の山城があったところ・・・
山頂近くには藩政改革に取り組んだ会津藩家老田中玄宰の墓や
北方警備で北海道の守りに就いた丹羽能教の墓がある。
田中玄宰は、お城が見える場所に埋葬して欲しいと遺言を残したといわれている。
このほかにも、小田山麓には、葦名一族の廟所、蒲生氏や保科氏とゆかりの深い寺院、
会津藩家老西郷頼母と一族の墓、大窪山の樹間にひっそりと佇む会津藩士の墓、
日清戦争から第二次世界大戦までの戦死者の慰霊のための忠霊塔などがある。
春は1年生が小田山に遠足という学校が多く、それ以来という方も・・・
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小田山忠霊堂・・・
小田山忠霊堂 案内板より
この忠霊堂のあるところは 元若松歩兵第六十五連隊 および元若松歩兵第二十九連隊が
かつて陸軍墓地として管理していたところであります
忠霊堂内には 日清戦争から大東亜戦争までの各戦役における両連隊の戦没者をはじめ
これら連隊以外の本県出身陸海軍人などの戦没者 あわせて一万数千名の分骨 ご遺髪
などが 安置されております。
満州会津村慰霊碑・日清戦争の忠魂碑・日露戦役戦病没将士合祀之碑・軍用動物供養塔
ガダルカナル 思い出の塔ー会津歩兵第二十九連隊が最後の突撃を決行した時刻をしめす時計
などが境内に建てられていて、毎年8月には慰霊祭がおこなわれているということです。
葦名家花見ヶ森廟所 市史跡・・・
会津の中世を400年にわたって支配していた葦名家の廟所。
居城黒川城(現在の若松城)の南東1200mに位置する小田山山麓の花見ヶ丘にあり
現在は16代盛氏、17代盛興、18代盛隆の3基の墓が残っている。
中央が16代盛氏(竹巌公)、西に17代盛興(もりおき)、東に18代盛高・・・
葦名氏の墓は、この3代以外では、現在、北に50mの場所に一基残されているだけという
五輪塔は寛文5年(1665)に保科正之が作らせたものという
如意輪山宝積寺・・・
文和3(1354)年、葦名盛員公の子/高盛の室/笹谷御前が観音堂を建てた。
康暦元/天授5(1379)年、葦名直盛公が笹谷御前を開基として創建した。
幾多の変遷を経て、蒲生秀行公の正室/振姫(徳川家康の娘)が中興に尽力し、当寺に葬られている。
戊辰の役で、堂宇や仏像、過去帳など全てが焼失した。
入口にある地蔵は、錫杖に十字が彫られており、切支丹地蔵といわれている
境内に、北向きとして有名な正一稲荷大明神がある
金剛山 恵倫寺・・・
天正18(1590)年、蒲生氏郷公が父/蒲生賢秀の菩提を弔うため創建し、
曹月存禅師 (下総国/安穏寺) が開山。
慶長17(1612)年、鶴ヶ城/西の米代から現在の地に移築。
戊辰の役で、堂宇すべてが焼失。本堂や山門など、今なお再建され続けている。
寺の裏庭には、御薬園と同じ庭師による庭園がある。
裏の小田山を登ったところには柴家の墓所・・・(急坂なので小田山経由がよい)
柴家とは・・・。柴太一郎(長男)は廃藩置県後、青森県下北で郡長を務めた。
柴四朗は、藩校日新館在学中に戊辰戦争が勃発し、
父佐多蔵(由道)に従って鳥羽伏見に参戦した。
明治十年(1877)の西南戦争には政府軍に従って出征した。
その後、アメリカのハーバード大学、ペンシルバニア大学に留学し、
その間「東海散士」のペンネームで小説を執筆するなどして注目を集めた。
帰国後は政治家に転じ、大隈重信、板垣退助の連立内閣では商務次官を務めた。
柴五郎は、鶴ヶ城落城のとき未だ八歳であった。
戊辰戦争後、不毛の地斗南に移住して、悲惨極まる生活を送った。
これについては「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」(石井真人編 中公新書)に詳しい。
「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」という柴五郎の叫びは胸を打つ。
廃藩置県後、上京して陸軍幼年学校、さらに士官学校に進み、会津人として初の陸軍大将となった。
日清・日露両戦役にも参加している。
昭和二十年(1945)敗戦の報に接すると、同年十二月十三日、戦争責任を感じて自刃した。
最期まで会津武士らしさを貫いた生涯であった。
大宝山 建福寺・・・
会津藩初代藩主、保科正之公が会津拝領となり、従って移ってきた"お供寺"の一つ。
変遷を経て、延宝8(1680)年、現在地の鞍見山正行寺跡地に移り、堂塔伽藍が建立され
貞享2(1685)年、正容公が、江戸芝/東禅寺から黙水和尚を迎える。
藩より寺領 100石を与えられて、士族の寺として、隆盛を極めたという。
しかし、戊辰戦争で、堂宇すべてが灰燼と化し、士族は会津を去って・・・
現存の堂宇は明治3(1870)年、鶴ヶ城御殿の古材を使って、再建されたものという
美しいと評判のシダレ桜は、残った1本も元気をなくして養生中でした。
しかし、歴代住職墓地内にもこれに劣らないシダレ桜があり、見事だそうです。
小田山中腹には、南会津郡塩沢において死亡した長岡藩総督 河井継之助埋骨地遺跡が・・・
一時ここに葬られたが、明治3年長岡市の栄涼寺に改葬されたという・・・
お城が見える見晴らしのよいところに会津藩家老神保内蔵助利孝の墓所がありました。