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-表象の森- 乞骸骨表
吉本隆明の比較的最近の著書に「思想のアンソロジー」(07年1月初版)というのがある。
著者自らあとがきで、「この本は日本国の思想史論を意図した研究の記述ではない。はじめからそんなことは考えもしなかった。ただ私自身の心にかかっている古代から近代までの思想に関与している記述を勝手気ままに択んで、気ままな解説や註をつけてそれを批評や批判に代えたかった。ただ、私自身がリアル・タイムで読んだ時代の書物には多昌の実感をこめたつもりでいる。」と記すように、奔放で意表を衝いた素材の選択と衰えを知らぬ縦横無尽の舌鋒が、著者自身の思想の深みに惹き込んでじっくりと読ませる。
さしあたり、材の簡潔なるも珍なる一片の句を、書き留めておこう。
「乞骸骨表」-骸骨を乞うの表
時は奈良朝、神護景雲4(770)年9月、右大臣吉備真備が公職引退の旨提出した辞表の表題として認めたもので、文意は「隠退の願いをお許し下さい」、この手の文書としては最古のものといわれる。
遠く現代の感覚からすれば意想外の「骸骨を乞う」という表記の面白さ、
これに吉本は「この言い方は中国式のものだ。現在の日本語の感覚で受け取れるように、<人間の骨ばかりになった身体を下さい>とか、<死んで骸骨になりたい>という意味にもならない。<骸骨>とい言葉が暗喩となっている中国式の綾をつけた表現」だと説く。
この辞表の背景には、この年(770)、真備を重用していた称徳天皇が崩じ、後継争いの末、左大臣藤原永手らの推した天智系の白壁王が即位し光仁天皇となり、彼の推した天武系の大室大市は斥けられたのである。
皇統に関与する勢力争いと、この時すでに75歳という老残の身である。真備の辞意は、一旦は慰留され、翌年再度の辞職願にて許され、隠居の身となり、宝亀6(775)年に薨去した。
以下吉本の解説の要点を引く。
「興味深いのは、現在、上役と衝突しても、対立きわまって追放同然であっても、辞表には<一身上の都合により>と書く習慣は、もう古典古代からはじまっていることだ。そこにはたくさんのアジア的な根拠と理由があるだろうが、その文体的な理由は、中国語を公文書の正規の公用文の形式に決めたことからきていると言えなくもない。」
「中国4千年の文化の高度さを、背伸びした採用したために、急速に上層からアジア的段階に入ったものの、原始や未開の遺制は<本音>になり、中国古代の様式は<建て前>となって二重化したとも言えなくもない。」
「この真備の<乞骸骨表>は簡明な名文で、現在に至っても官公職や株式会社を辞任退職する場合の<辞表>の模範だが、別の意味では事の真相に触れず一身上の都合にしてしまう、日本だけでなく東洋の悪習の元だとも言える。要するに一身上のことと、公的・社会的なこととの区別があいまいなのだ。」
「吉備真備の<乞骸骨表>は、東洋的道義で個の全体を覆おうとする礼儀と、個の恩愛を隠そうとする礼節(社交)を能く象徴して興味深い。」
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<春-105>
霞めただ朧月夜の別れだにおし明け方の春のなごりに 後崇光院
沙玉和歌集、応永二十二年、三月盡五十首の中に、暮春霞
邦雄曰く、伏見宮貞成親王43歳の春の別れの歌。初句切れとはいえ、声を呑むような響をこめ、「別れだに惜し」と「押し明け方」とが、第三・四句で裂かれつつ一つになるあたりも、特殊な味わいである。ついに帝位に昇ることなく、第一子が後花園天皇になったため、晩年太上天皇の称号を受けた。管弦のたしなみ深く、殊に琵琶は名手と伝える、と。
行く春の今はのなごり霞みつつえぞ言ひ知らぬ今日の面影 法性寺為信
為信集、春、暮春。
邦雄曰く、惜春歌といえば各勅撰集、各家集に、必ず春の部の終りに暮春・三月盡と題して、残る日数の少ないのを歎くのは常道だが、この歌は春の名残とその面影の漠として捉えがたいことを、述べてそのまま調べに変え、独特の魅力を生んだ。作者は後鳥羽院が隠岐配流のみぎり、肖像を描いた絵師信実の曾孫、13世紀半ばの生れで、勅撰入集28首、と。
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