山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

明日よりは志賀の花園まれにだに‥‥

2008-01-19 15:02:18 | 文化・芸術
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Information「Arti Buyoh Festival 2008」

-温故一葉- 鳥越修二君へ

 寒中お見舞。
年賀拝受。私儀、甚だ勝手ながら本年よりハガキでの年詞の挨拶を止めたので、悪しからずご容赦。
斯様に年詞ばかりの往返となってもう20年ほども経つのだろうか。
そういえば、夜分だったと記憶するけれど、一度きり西大寺のお宅にお邪魔したことがあったが、あれはいつ頃のことだったのだろう? なんでそういうことになったか経緯もなにも、車を走らせ何故か菖蒲池の側を通って行ったかと思うが、想い出そうにもそれ以上のことは少しも浮かんでこない。あの時、もうお子さんが生まれていたのだっけ、ひょっとするとそれで行ったのだったか?
そうそう、君の父上が亡くなられた折、弔問に宇治の萬福寺近くに伺ったこともあったが、あとさきでいえば、さてどちらが先だったのか?
それ以後、萬福寺へはたしか二度訪ねたことがある。中国風だという些か世俗臭のする滋味あふれた十八羅漢像が印象深く、一度は年の瀬も近かった頃なのだろう、その羅漢たちがプリントされた暦を買って帰ったのを覚えている。

さて私はといえば、奧野正美が大阪市議に初当選したのが87年、この時は君も影で動いて票を集めたと言っていたね。その翌年、私は彼の事務所に身を預けるように転身した。四方館という名を外さなかったものの、裸同然のゼロスタート、生き直しのようなものだった。以後丸12年を事務所で過ごして、独りで小さなofficeを構えたのが00年、それも2年前に畳んで、今は自宅で隠居同然といえば聞こえはいいが、日々読書三昧やら幼な児相手に細々と暮らす身だ。
そうだ、君も知らないままで吃驚させてしまったらまことに恐縮だが、私の現在の同居人たちは、27歳下の妻と、この春小学校へあがる6歳の娘との3人家族だ。健康診断や人間ドックなどさらさら縁もなく、昨年2月に左肩鎖脱臼で3日ほど入院したのが病院暮らしの初体験で、呼吸器臓器など異状の心配は露ほどもないような私だから、おそらくこの先、この形で10年、15年を生きるだろう。まだまだ残された時間はかなりあるようだから、いつかどこかで、懐かしく相見える機会も訪れようか。

君に向かってこうして綴りながらも、その傍らどうしても脳裏に浮かんで消え去らぬもの、それは馬原雅和の面影であり、東京での、その事故死の通夜の光景だ。
あの夜、遠く宮崎から駆けつけた彼の父親と弟さんから「生前はお世話に、云々」と丁重な挨拶を受け、ただ黙するのみだった私‥‥、なんという皮肉、なんという悪戯。
  08 戊子 1.18   林田鉄 拝

私は1974(S49)年の春から1981(S56)年の7年の間、関西芸術アカデミーの演劇研究所・昼間部に、週1回2時間・1カ年の身体表現の講座を担当していた。昼間部研究生でいえば4期生から10期生までにあたるはずだが、鳥越修二君はその6期生だった。馬原雅和君は4期生、私がアカデミーで指導した初めての生徒だ。
両君とも1カ年の研究生を了えて、それぞれ劇団に入団していたのだが、私との繋がりもまた保っていた。78年の「走れメロス」の準備に入った頃(77年)は、彼らは相前後してともにアカデミーを辞し、私方の研究生となっていた。
馬原君が演劇への新しい夢を追って東京へと、私の元を離れていったのは80年春だったが、その翌々年の春先か初夏の頃だったか、ある劇団に所属しながらアルバイトに明け暮れていた彼は、深夜というより明け方近か、首都高速上での工事車両の架台上で作業中、暴走した居眠り運転のトラックが激突、彼の身体は宙に舞って高架から地上へと落下、墜落死した。即死あるいはそれに近いものであったろう。
宮崎県の高鍋町出身だった彼は、180㎝を優に越える長身だが、木訥・篤実を絵に描いたような人柄で、地味ながら周囲から信頼の集まるタイプだった。惜しまれる無念の死であった。
鳥越君は京都宇治の人、隠元を祖師とする黄檗山萬福寺を中心にして煎茶の家元各流派が組織されているようだが、そのなかの一派をなす家元の家に生まれたと聞くも、彼自身は一時期レーサーに憧れたようないわゆる現代っ子で、モダンな一面と義理堅く古風な気質を併せもった青年であった。

<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>

<春-110>
 明日よりは志賀の花園まれにだに誰かは問はむ春のふるさと  藤原良経

新古今集、春下、百首奉りし時。
邦雄曰く、新古今集春の巻軸歌は正治2(1200)年後鳥羽院初度百首・春二十首のこれも掉尾の一首。微妙な呼吸の二句切れ、朗々と、しかも悲しみを帯びた疑問形四句切れ、体言止め、古今の名作と聞こえ、その閑雅な惜春の調べは現代人の琴線にも触れよう。志賀の花園は天智帝の故京で桜の名所として聞こえていた。明日とはすなわち夏、四月朔日を意味する、と。

 行く春のなごりを鳥の今しはと侘びつつ鳴くや夕暮の声  邦輔親王

邦輔親王集、三月盡夕。
邦雄曰く、、惜春譜の主題を鳥に絞った異色の作。鶯と余花・残春の拝郷は珍しいが、春鳥の、それも「夕暮の声」に象徴したところがゆかしい。三月盡を「今しは」と感じるのは、鳥ならぬ作者自身、縷々として句切れのない調べも、歌の心を盡して妙。同題に「慕ひても甲斐あらじかし春は今夕べの鐘の外に盡きぬる」があり、これもまた「鳥」に劣らぬ秀作、と。


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