Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」
-温故一葉- 内海辰郷君へ
寒中お見舞い。
さすがに大寒、このところ冷え込み厳しく、山里近くの箕面はちらほらと雪も舞ったのではありませんか。
年詞に代わるFPレター拝読、充実のご活躍と見受けられ、誠に慶賀の至りです。
2年、3年と短いあいだに、FPとしての活躍の場をずいぶんと多彩に拡げられているご様子を見るにつけ、さすがと感じ入っております。
それにしても好事魔多し、災厄・不幸はいつ襲いかかるとも凡俗には計り知れず、まこと一寸先は闇ですね。先の便りでは、厚い信頼を寄せてこられた支援の同志が急逝された由にて、衝撃とともにさぞ悲歎に暮れられたことでしょう。私にとっても一夜かぎりの御縁になってしまったこと、惜しまれてなりません。心よりお悔み申し上げます。
さて、「2月頃に結論を出します」と付記されておられましたが、なかなか難しい選択なのでしょうね。
阿波踊りなら「踊る阿呆に、見る阿呆」で、「同じ阿呆なら、踊らにゃ損々」ですし、吾々のような板の上にのるをもっぱらとする浮かれ者、制外の者ならば、選択の余地もないわけですが、正俗にあって事理をわきまえ誠実に生きんと欲せば、どこまでも冷徹に、客観の動きを見きわめることに尽きるのでしょう。
あくまで初心たる首長の座か、議員としての返り咲きか、あるいはいっさい動かぬか、二者択一ではなく三択問題かと思われますが、還暦を過ぎて残された人生の、おそらくは最後の大事というべき選択であってみれば、どこまでも虚心坦懐、平常心にて決せられることを。
合縁奇縁、奇妙といえば些か奇妙な糸に結ばれたご縁、いずれの選択にせよ、このたびばかりは、お役に立つならいくらでもする所存です。
では、いずれまた。
08. 戊子 大寒 林田鉄 拝
内海君は2歳下、彼とは切れ切れながらの縁とはいえ奇妙なほどにつながりがある。
同じ九条界隈に育っているが、小学校区は異なり、中学・高校を同じくしたけれど、学校生活では特別の縁はなかった。私の生家からごく近所に叔父の家があり、そこには従弟妹らが4人居たのだが、2歳下の従弟が彼と中学時代親しくしていたと見えて、長じてその従弟の結婚式の司会役を務めたのが彼だった。顔は見知っていた彼の、そんな思わぬ場所への登場に、「おうおう、そうだったのか」と思ったのが初め。
さらに、私が家業から離れ、一人で自営をしていた頃のある日、軽トラックで狭い路地裏にある下請の溶接所に行った際、不覚にも近所の小学生の子どもと接触事故を起こしかけた。幸いにも直かに当りこそしなかったものの、ビックリした子どもははずみで転んで、泣き出してしまった。此方も慌てて子どもの怪我の様子をよく調べたうえで、そのお子さんの家を訪ねたら、なんとその親御さんが彼だった。
さらにもうひとつ、こんどは奧野正美を介して縁があった。奧野が大阪市議になった時、彼はすでに箕面市議となっていた。彼は2歳下の妹と二人兄妹だったが、その妹御が奧野と高校の同窓で、どうやら二人はほのかな淡い想いを抱いた者同士だったと見えて、そんな縁から選挙の応援やらと時に行き来が生じるようになった。
そして昨年の統一地方選挙、西区で立った谷口豊子の選挙では、彼も私も別々の筋から頼まれたのだが、結局ともに支える羽目になり、2.3週間という短い期間ながら、私は参謀役、彼はいわば切り込み隊長よろしく熱戦した。
彼は4年前、5期務めた議員職を退き、同じ箕面の市長選に挑んだのだが、惜しくも一敗地にまみれ、野に下っている。再び市長選に名告りを挙げるか否か、改選は8月、どうやら選択を決すべき時期は差し迫っている。
<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>
「狂句こがらしの巻」-02
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
たそやとばしるかさの山茶花 野水
次男曰く、野水は名古屋の町方に侘茶をひろめた先覚者で、後に惣町代を退隠しては転幽と号し、もっぱら茶の湯を友とし、俳諧の方は元禄6年頃を境に次第に遠ざかったとみえる。
「とばしる」は「迸る」だが、季語「こがらし」の扱いと云い訪客の体と云い、乾き切ったさまに発句が作られているから、水を向ける工夫をしたらしい。事実、当日は時雨とか雪催しの空だったのかもしれぬ。
「山茶花」は「俳諧初学抄」-寛永18(1641)年刊-以下に初冬として挙げられ、連歌書にはまだ名が出てこない。当時、まだ一般には物珍しかったはず。
客発句・亭主脇、同季に作る、という約束は連句の基本を挨拶と見る現れだが、初冬の風が花木を枯らすことになるかもしれぬ、と告げられれば、受けて、四文字で取り出せる花木はあいにくと山茶花ぐらいしかない。寒椿、早梅、蝋梅などは晩冬である。
はからずも新旧の季語を取り合わせて挨拶の趣向につかえた点が妙である。竹斎と違ってあなたは名手だし、吾々は若い花木だから、枯らされる心配はない、と読めばこれはわかる。「とばしる」に初々しさも現れる。
当時まだ珍しい山茶花は、堀沿いか路地口にでも植えてあったか、たぶんこれは実景だろう。
時に芭蕉41歳、野水27歳、同座の連衆もなおまだ若く、旅人の笠に「とばしる山茶花」は、そのまま名古屋町衆の心意気、かれらの若き日の姿だったと読んでよい、と。
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