山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

朝鮮のほそりすゝきのにほひなき

2008-01-27 09:34:18 | 文化・芸術
Alti200412

Information「ALTI BUYOH FESTIVAL 2008」

-世間虚仮- 弱り目に‥‥

鬼の霍乱(?)といえば、ウンウンと唸って床に臥せっている者に対してあまりにつれないか。
イヤ、困った。とうとう連れ合い殿がインフルエンザに罹ってしまった。
京都のアルティ・フェスを間近に控えてなんたることか、昨日も今日も、いわば追い込み、仕上げの稽古と組んでいたのに、まったくもって想定外、ホント、弱った。
もちろん近頃とみに脅威の伝えられている新型インフルエンザではないから、そこは一安心ではあるが、ここへきて稽古にならないのは、とにかく痛い。

それにしてもこの7.8年、彼女の職場環境は年毎に苛酷さを強めてきている。昨春の配置転換で、休日出勤もめずらしくはなくなったし、いわゆるサービス残業というのも常態化している始末だから、かなりの疲労が蓄積されてもいたろう。ウィルスへの抵抗力はよほど弱まっていたものとみえる。
弱り目に祟り目、病魔はちゃんと見逃さない。

まこと鬼神ならば病魔など懼れるに足らずだろうが、そこは人である。気力と体力、どちらが過剰となってもいいことはない。忙しく立ち振る舞わねばならない身であれば、なおさら己をよく知る養生訓が必要だ。

<連句の世界-安東次男「芭蕉連句評釈」より>

「狂句こがらしの巻」-05

   かしらの露をふるふあかむま  
  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき   杜国

次男曰く、碩学の露伴や折口信夫の評釈では、朝鮮芒なるものに拘り、「にほひなき」をその生態と眺めているが、「朝鮮の」は、前句「あかむま」を虚から荷馬の実へ奪うために思い付いた詞で、「ほそりすゝき」にとっての枕にすぎない。

赤馬-朝鮮馬は、当時すでに半島系の馬が日本種に代わってもてはやされていた証拠になるだろう。無さそうで有るもの、有りそうで無いものが連想を紡ぎ出す興の本質だとわかっていれば、初めから朝鮮芒などという怪しげな名に捕まることはなかったわけだ。

尾張酒は、西浦を中心に知多郡各地で醸造された。杜国の句は、前を景に奪って駄送りと見た作りで、新酒の香に酔いながら匂い無き野を行くとしたところに俳を持たせている。諸注は、其の場を見立て替えて活気から侘びしさへ転じた付だと説明するが、それではせっかくの「かしらの露」が死語になる。其の人にせよ其の場にせよ、連句のはこびに見立てを濫用したがるのは、物の晴陰・乾湿・長短・高低、言葉の虚実が見えていない証拠である。

露も芒も兼三秋の季だが、「にほひなき」と括れば季はおのずと深秋へ、時刻も朝から昼へと動くだろう。露消えて陽すでに高く、秋気かえってそこに充つと感じ取らせる、さりげない座五文字の遣い方がうまい、と


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