―表象の森― ただ即きゆく‥。
「冬の日-霽の巻」も芭蕉の挙句「その望の日を我もおなじく」をもって了。
この安東次男の「芭蕉連句評釈」にはじめて触れたのは、季刊雑誌「すばる」-集英社-の連載であった。
70年代末には月刊となっている「すばる」だが、季刊時代であった1970(S45)年6月の創刊から5.6年は毎号欠かさず書店から取り寄せていたかと記憶する。
その創刊号で私の眼を惹きつけたのは、梅原猛の「神々の流竄」であり、もう一つがこの前書となる「芭蕉七部集評釈」であったのだが、当時の私にとってこの連載を読み遂せていくことは荷が勝ちすぎていたから、到底まともな読者であったと云える筈もない。ただ、ゆくゆくはこの鬱然たる樹海に迷い込んで存分に呼吸してみたいと思ったものだった。
本書「風狂始末-芭蕉連句評釈」-ちくま学芸文庫-巻末の解説で粟津則雄は、
「彼は、この座に身を投じ、それにとらわれ、とらわれることによって、そこでの連句のはこびを、あの緊迫した対話へ奪いとろうとする。そのとき、たとえば歌仙は、すでに巻きあげられたものとして眼前にあるものではなくなる。この対話を通して、再び新たに巻き始められるといったおもむきを呈するのである。対象にとらわれ、とらわれることによって対象とのあいだに緊迫した対話を生み出すことは、「鑑賞歳時記」においてすでにはっきりと見られる、安東氏の終始一貫して変わることのない姿勢であるが、対象が発句ではなく、たとえば歌仙である場合、彼はさらに強くさらに濃密にその場にとらわれることとなる。」
と書いているが、私もまた叶わぬまでも、新たに巻き始められるとみえるこの濃密なる場に、ただ即きゆきたいものと願っている。
<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>
「霽の巻」-36
こがれ飛たましゐ花のかげに入
その望の日を我もおなじく 芭蕉
望-モチ-の日
次男曰く、「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」。家集、異本家集、御裳濯河自歌合に入り、「続古今集」にも撰ばれた歌で、西行はこの願どおり文治6(1190)年2月26日、河内弘川寺に73歳で入寂した。歌は壮年修行中に詠置いたものらしいが、実は先の「ほとけにはさくらの花をたてまつれ」は「山家集」春の部で右の歌の次に配列されているものだ。これは芭蕉の意識に不可分のものとしてあったかもしれぬ。間髪を容れず裁入れている。
句のおもてに季語はないが、「その望の日」を新季語の工夫と見做したくなる心憎い作りである。むろん含は、私もそんな極楽を味わってみたいものだ-そんな可愛い女に会ってみたい-というジョークにある。味な挙げ方をする、と。
「霽の巻」全句-芭蕉七部集「冬の日」所収
つゝみかねて月とり落とす霽かな 杜国 -月・冬 初折-一ノ折-表
こほりふみ行水のいなづま 重五 -冬
歯朶の葉を初狩人の矢に負て 野水 -春
北の御門をおしあけのはる 芭蕉 -春
馬糞掻あふぎに風の打かすみ 荷兮 -春
茶の湯者おしむ野べの蒲公英 正平 -春
らうたげに物よむ娘かしづきて 重五 -雑 初折-一ノ折-裏
燈籠ふたつになさけくらぶる 杜国 -雑・秋
つゆ萩のすまふ力を撰ばれず 芭蕉 -秋
蕎麦さへ青し滋賀楽の坊 野水 -秋
朝月夜双六うちの旅ねして 杜国 -月・秋
紅花買みちにほとゝぎすきく 荷兮 -夏
しのぶまのわざとて雛を作り居る 野水 -雑
命婦の君より来なんどこす 重吾 -雑
まがきまで津浪の水にくづれ行 荷兮 -雑
仏喰たる魚解きけり 芭蕉 -雑
県ふるはな見次郎と仰がれて 重五 -花・春
五形菫の畠六反 杜国 -春
うれしげに囀る雲雀ちりちりと 芭蕉 -春 名残折-二ノ折-表
真昼の馬のねぶたがほ也 野水 -雑
おかざきや矢矧の橋のながきかな 杜国 -雑
庄屋のまつをよみて送りぬ 荷兮 -雑
捨し子は柴苅長にのびつらん 野水 -雑
晦日をさむく刀売る年 重五 -冬
雪の狂呉の国の笠めづらしき 荷兮 -冬
襟に高雄が片袖をとく 芭蕉 -雑
あだ人と樽を棺に呑ほさん 重五 -雑
芥子のひとへに名をこぼす禅 杜国 -夏
三ヶ月の東は暗く鐘の声 芭蕉 -月・秋
秋湖かすかに琴かへす者 野水 -秋
烹る事をゆるしてはぜを放ける 杜国 -秋 名残折-二ノ折-裏
声よき念仏藪をへだつる 荷兮 -雑
かげうすき行燈けしに起侘て 野水 -雑
おもひかねつも夜の帯引 重五 -雑
こがれ飛たましゐ花のかげに入 荷兮 -花・春
その望の日を我もおなじく 芭蕉 -春
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