山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

はきも習はぬ太刀のヒキハタ

2009-01-28 17:41:31 | 文化・芸術
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―四方のたより― はて、どうしたものか‥

昨年のいつ頃であったか、我が家からごく近く、徒歩で4.5分、300mほど先か、いつオープンしたのか、新しいバレエ教室が誕生していたのに気がついて、その主はどういう御仁かネットで探ってみたら、佐藤由子バレエスタジオなるHPに行き当たった。

そのprofileによれば、2000年関西学院社会学部卒とあるから30歳を過ぎたばかりと推定されるが、大屋政子バレエ研究所で6歳より始めたとあるから、その教室が自宅かどうかは分からぬが、いずれにせよ出身は住吉か住之江、この近辺なのだろう。

大屋政子のところから江川バレエスクールへと転じたというそのバレエの経歴は、なかなか輝かしいもので、92年のフランス・ウルガット国際バレエコンクールで2位銀賞にはじまり、97年の神戸全国洋舞コンクールやアジアパシフィック国際バレエコンクールでいずれもシニア部1位など、国内外のさまざまなコンクールで上位入賞を経て、00年よりドイツ・ドレスデンザクセン国立歌劇場と契約、プロとして活躍してきたという。

さて我が幼な児KAORUKOはすでに満7歳にて、いささか遅きに失するかともいえそうだが、昨夏より日毎稽古場で接するようになったARISAの姿にも照らしつつ、彼女の成長期、大人の身体に成ってくるまでの年月を、バレエでの身体作りに預けてみるのもいいかもしれぬと勧めてみたところ、「やってみる」と応じたので、ひとまずは見学とばかり連合い殿にこのバレエ教室へ連絡をとらせたのだった。

その体験Lessonの日-19日-、スタジオの戸口で迎える態になった先生の佐藤女史、KAORUKOに付添った母親のほうはともかく、その二人の背後に立ついい年をした男の姿に少々驚いたか、怪訝な表情を投げかけてきた。咄嗟に連合い殿、その不審を解くべく「父親です」と返したものの、なにしろそう応じた彼女と親子ほどの年の差だもの、ほんとにKAORUKOの父親と見たか、あるいは祖父と受け取ったかどうかはわからぬが、幼い子どもと若い母親ばかりの女たちの園に、場違いにもすでに六十路も半ばの爺も付添の見学者として、あまり居心地のよいものではなかったが、スタジオの隅に座を占めたのだった。

Lessonを受ける子どもたちは12.3名、4歳くらいからKAORUKOと同じ小1の子も混じっているようであった。この日の体験Lessonは彼女ひとりだけと見えたのだが、他の子どもたちに殆どの母親が付き添って最後まで見学しているのに驚かされつつも、ああこういう世界なのだ、と思い至らされたものだった。

教室のクラス編成は、児童科、初等科A・B、中等科A・Bと分かれているから、この児童科クラス、本来なら就学前の子どもらが対象なのだろうが、まだまもない初心の小学生もしばらくはこのクラスで慣らしていこうということか。

その一時間の体験Lessonの途中、突然KAORUKOは泣き出してしまったのである。それはbarに捉まって3番positionで何度か連続ジャンプをしながら左右の脚を踏み換えるといった動きだった。それまで自分なりにガンバってガンバってみんなの動きに見よう見まねで付いていったのだけれど、この動きはかなり速いし、とても付いていけるものじゃなかった。人一倍負けん気の彼女は、とうとう緊張の糸が切れて見事討ち死に、母親の元へと走りしばらくは泣きじゃくっていた。

それでも件の佐藤先生、そんなKAORUKOを一瞥するも、かまわずLessonの教程をすすめていく。習うより慣れろとばかり、満足に出来ない子のひとりひとりに手をとって丁寧に教えていくといった方法は採らない。子どもと一緒に通ってきてLessonを見守っている母親たちの、稽古場ばかりではなく日々のフォローやサポートが、子どもたちの向上や成長にとって必要不可欠のものなのだ、ということなのだろう。まだ初心のあいだは、とにもかくにも親子ぐるみでなければとても保たない、そういう世界なのだ。

ひとしきり泣きじゃくっていたKAORUKOは、母親のフォローもあってか、また気を取り直して子どもたちの輪へ戻り、あとの動きにはなんとか付いていったものの、体験Lessonを終えて帰宅するや、母親の「どうする、やってみる?」との問いかけには、すかさず「るっこ、やらない!」とえらくハッキリと宣言したもうたのであった。

この日の出来事からすれば、まあ無理もない応えである。無理もないが、さて、これで終わらせてよいか、軌道修正を図るか否か、それからすでに十日を経ようとしているが、ちょっぴり悩ましくもあり、はて、どうしたものか‥。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」-04

  旅人の虱かき行春暮て  

   はきも習はぬ太刀のヒキハタ

次男曰く、鞘袋をかぶせた太刀-打刀ではない-をあしらって、「旅人」の身分の見定めとしている。

「ヒキハタ」は蟇肌、ヒキガエルの背を連想させるところからつけられた呼名で、皺革の一種である。

旅は公事か受領か、それとも戦乱か、いずれにしても「佩-ハ-きも習わぬ」と云う以上、公家育ちである。

太田水穂は、虱掻き行く人の卑しさと「ヒキハタ」をひびきであるといい、中村俊定は「虱かき行」と「はきも習はぬ」が不格好な姿の釣合であると説く。そういう見方も成り立つが、ここはむしろ身分の見定めにとどめて次句に俤-話-の一つも趣向させよう、というのが作の狙いだろう。これらは曲水のせっかくの第三-起情-を、只の下衆人と読んだことにそもそもの狂いがある。


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