山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

木のもとに汁も膾も桜かな

2009-01-15 16:31:47 | 文化・芸術
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―表象の森― 「花見の巻」解題

安東次男「風狂始末」を読みすすめながらあらましを筆録するというこの「連句宇宙」もとうとう7歌仙を終えて、残すはあと3つの歌仙。

師走から新年へと、このところ言挙げのペースも乱れ勝ちだったが、心機一転、このあたりで取り戻したいと思う。

「冬の日-尾張五歌仙」「春の日」「阿羅野」-いずれも名古屋の荷兮編-に続く、所謂「七部集」の第四「ひさご」-珍碩編、元禄3年仲秋刊-の最初に収める。「細道」後の新風を探るべく、路通を連れて郷里伊賀を出た芭蕉が、「猿蓑」撰に先駆けて膳所で指導した唯一の現存連句である。

「ひさご」は当「花見の巻」以下五つの歌仙のみを以て編み-四季発句の部はない-小冊子ながら「貞享冬の日」を継ぐ志を顕した集で、序も「阿羅野」の逸材越人に請うている。

連衆は膳所衆のほかに荷兮・越人・路通、それに大津からは只一人乙訓が加わり、近江蕉門の古参尚白と千那は加わっていない。新旧勢力の交替時の常とはいえ、これは蕉門が経験した初の躓きとなった。

「花見の巻」連衆
・芭蕉翁-路通が敦賀へ出迎えに立ったのは膳所からで、主従の大垣入は元禄2年8月下旬、9月6日木因の支度船で伊勢に向い、伊賀上野に帰ったのは同月下旬。五十韻や歌仙数席を重ね、11月末路通を伴って奈良へ出、春日若宮祭見物の後、膳所に赴き、草庵-義仲寺宿坊か-に入った。その間京に出て上京の去来宅-もしくは落柿舎-で鉢叩を聞き、膳所に戻って越年。正月3日ひとまず伊賀へ帰り、3月半ば頃まで「山里」の春を惜しみ、藤堂家中に招かれて俳席を重ねる。
あらためて出郷した俳諧師は、「花見の巻」に一座の後、4月6日国分山の幻住庵に入った。「猿蓑」撰のはじまりである。翁ときに47歳。

・珍碩-浜田氏、近江膳所の人。後、高宮氏を称す。号珍夕、洒落堂、略して酒堂とも。生歿・経歴詳かでなく、元文2-1737-年頃、70歳ぐらいで歿か。芭蕉との初会は元禄2年冬、曲水を介してであったと思われ、二十歳そこそこの青年で、すでに膳所衆のホープと目されていた。
芭蕉はこの無名の新人に、「山は静にして性を養ひ、水はうごいて情を慰す。静動二の間にしてすみかを得る者有。浜田氏珍夕といへり」云々と、異例の讃を書与えている。

・曲水-曲翠とも。菅沼氏、名は定常、通称外記。膳所藩老職、五百石。句の初見は其角編の「続虚栗」。貞享4年江戸詰の時、其角を介して直門に入ったらしく、したがって湖南蕉門の派生には尚白系と曲水系の二つがあった。「ひさご」には「花見の巻」のほかに曲水の名を見ないが、これは同年夏から江戸詰になったからか。興行当時31歳。

<連句の世界-安東次男「風狂始末-芭蕉連句評釈」より>

「花見の巻」-01

  木のもとに汁も膾も桜かな  翁

次男曰く、板本の巻首に「花見」と、句から離してしるしている。これはこの興行の趣向、もしくは懐紙袖書と見倣すべきものだろう。発句の作意ではない。巷間、「芭蕉発句集」は誤ってこれを句の詞書としているようだ。

連・俳の「花」とは文字どおり賞翫の惣名で、桜は代表的なものだが其名で詠んでは「花」にならぬ。この巻の初折の「花」は定座の裏11句目でつとめている-「千部読花盛の一身田」珍碩-。

初句「木のもと」が下に敷いたのは、公任が「和漢朗詠」に選んだ花山院の「木のもとをすみかとすればおのづから花見る人になりぬべきかな」-詞葉・雑-あたりか。当日の句会が花びらの舞込む洒落堂での即事とすれば、汁も膾もサクラに見える-なる-という挨拶は俳になる。芭蕉であってみれば、自ずから人口に膾炙した西行の歌も思い浮かぶ。
「木のもとに旅寝をすれば吉野山花の衾-フスマ-を着するはるかぜ」

旅人ならぬ汁と膾に花の衾を着せるのが「花見」だ、という諧謔はわるくない。懐石の膳組で汁と膾は不可分でありながら互いに窮屈な仲だが-「羮に懲りて膾を吹く」という-、膳から下せば自由-無礼講-になる、花吹雪のおかげで汁と膾の見分けもつかなくなる、という発見は花見におかしみとくつろぎを生むだろう。

去来の「三冊子」に、「此句の時、師の曰く、花見の句のかゝりを少し心得て軽みをしたり、と也」と伝えるのは彼此いずれのことか、と。


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