「In Nakahara Yosirou Koten」
風姿花伝にまねぶ-<17>
物学(ものまね)条々-鬼
是、殊更大和の物也。一大事也。凡、怨霊・憑物などの鬼は、面白き便りあれば、易し。
あひしらひを目がけて、こまかに足手を使ひて、物頭を本にして働けば、面白き便りあり。
真の冥途の鬼、よく学べば、恐ろしき間、面白き所更なし。
まことは、あまりの大事のわざなれば、これを面白くする者、稀なるか。
先、本意は、強く恐ろしかるべし。強きと恐ろしきは、面白き心には変れり。
抑、鬼の物まね、大なる大事あり。よくせんにつけて面白かるまじき道理あり。
恐ろしき所、本意なり。恐ろしき心と面白きとは、黒白の違ひ也。
されば、鬼の面白き所あらん為手は、極めたる上手と申すべきか。
さりながら、それも、鬼ばかりをよくせん者は、殊更、花を知らぬ為手なるべし。
されば、若き為手の鬼は、よくしたりと見ゆれども、更に面白からず。
鬼ばかりをよくせん者は、鬼も面白かるまじき道理あるべきか。委しく習ふべし。
たゞ、鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し。
物まね条々の最後の抄は<鬼>である。
先に、神と鬼の区別を述べたて、神は「舞懸り」と結んで、鬼についての語り口は俄かに冴えてくる。
冒頭、鬼の芸は、古くからの観阿弥・世阿弥たち大和申楽の十八番ともいうべき出し物であり、もっとも大事の芸だという。
「恐ろしき心と面白きは、黒白の違ひ」というように、相矛盾する「恐ろしき」と「面白き」をいかに統合し止揚するかが、世阿弥にとっての難題であった。
すでに「力動風鬼」と「砕動風鬼」の対照的な概念がこれまでに登場している。
世阿弥は晩年になるにしたがって、「形は鬼なれ共、心は人なるがゆへに」と、
手足を細やかに使う「砕動風」へと工夫を重ねてゆくが、観客から好まれ喝采を浴びるのはいつまでも大仰な「力動風」であったろう。
観客に迎合するのみの「鬼ばかりをよくせん者」が氾濫するなかで、世阿弥はそれらを「花を知らぬ為手」と断じ、「鬼の幽玄」の位をめざして殊更にこだわっていく。
「別紙口伝」には、「怒れる風体似せん時は、柔かなる心を忘るべからず。これ、いかに怒るとも、荒かるまじき手立なり。怒れるに柔かなる心をもつ事、珍しき理なり」という。
「怒れる風体」に「柔かなる心」を、「恐ろしき心」に「面白き」を。
互いに相反する二面がひそかに支え合い、高次のレベルで調和されるとすれば、その芸境は不可思議な格調を有しているにちがいない。
「鬼の面白からむたしなみ、巌に花の咲かんが如し」とは、まさに鬼の幽玄体といえるだろう。
――参照「風姿花伝-古典を読む-」馬場あき子著、岩波現代文庫
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