山頭火つれづれ-四方館日記

放浪の俳人山頭火をひとり語りで演じる林田鉄の日々徒然記

握りしめる手に手のあかぎれ

2006-02-16 16:57:45 | 文化・芸術
051129-113-1
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ALTI BUYOH FESTIVAL 2006 in Kyoto <辛口評-3>

-第3夜- 2/12 Sun 
◇The Wheel of Life -small tales,inspired by “ZEN”
                 -25分    -Oginos&CORE-兵庫
  構成・演出・振付・音楽・照明Plan:荻野祐史
  出演:鈴木桂 東良沙恵 上川未友 窪田郁音 平屋江梨 
      亀坂祐美子 西香澄
Message “The Wheel of Life” 2006公演予定
      2月 DancePartDigest版 at 兵庫県立芸術文化センター
      2月 shortVersion初演 at 京都府立府民ホール
      8月 Full Length, World Premiere in UK
      12月 Video Installation in Germany


<寸評> 作品のタイトルを「輪廻転生」と解すればよいのかどうかは作者に確認したわけではないので判らない。専門は数学だという作者の、バレエのポジョショニングを基礎に、モダンテクニックで身体の分節化を為し、ラバン・コノテーションを架橋するという、自身の観念上に描かれた方法論が、現実の舞台から見えた印象をできうる限り深読みするにしても、舞踊における可能態としてありうるかどうかは今のところ不明としかいいようがない。
 中学二年生(14歳か)を最年長とする少女たちのユニセックスな身体が、一定の抑制を働かせつつ現前される動きに、ある種の観念の欠片のごときものを感じうるとしても、その体内に深く潜む生命の炎は、鋼鉄の器のなかの燠火のように、固く閉ざされたままだ。’60年前後の多場面形式の報告劇を想い出させるような、短い場面が一節ごとにピリオドを打たれ、点々と繋がれていく構成は、観念の数珠繋ぎにも似ていようか。
 カンパニー結成から10年を経るというに、踊り手たちが未だ少女のままだというのも解せないけれど、やがて彼女たちが否応もなく大人の女としての性的身体を具えてきた時に、彼女らの体内に潜む燠火は、この観念上の方法論を喰い破ってまで、見事な灰神楽を巻き起こすのだろうか。それとも一人ひとりただ静かにその場を立ち去ってゆくのだろうか。


◇ここはわたしの家
                    -18分    -河合美智子-兵庫
  振付:河合美智子
  出演:宮澤由紀子 長井久恵 井上朝美 林かつら 佐野和子
      藤原慶子 河合美智子
Message 緑の草原を、赤に塗ったのは誰
     広い大地を、悲しみに塗ったのは誰
     強い風が、恐れと怒りを運んで
     そして明日を奪っていった


<寸評> この振付者は、動きのcompositionにおいては達者な人と見受ける。多要素を孕みつつ群の動きが2分30秒ほどだが、増幅させつつ展開されていたのは、収穫としたい。
 動きそのもので物が考えられることは、昨今の舞踊現象においては貴重なことだと思う。ところが、振付者自身にはどうやらその自覚はあまりないらしく、観念でイメージを喚起し、盛り沢山にイメージのコラージュを創っていこうとしている。上演18分のうちに12、3、或はそれ以上のシークエンスがあったのではないか。したがって此方は、観念のではなく、動きのイメージの数珠繋ぎとなる。
 達者な、動きのcompositionが、その造形力というか形成力というか、それらにおいてcontinuity-連続性-を獲得し、自身にとって未知の表現領域に歩み出されんことを、期待したい。


◇Sound of Sand    
           -23分   -a-core-dance arts-ニューヨーク
  構成・演出:Ayako Kurakake Yoko Heitami
  振付:Ayako Kurakake Iratxe Ansa Santesteban
  出演:Nohomi Barriuso Iratxe Ansa Santesteban 
      安東真理子 渡辺由美
Message  a-core-dance artsはニューヨークを拠点とするコラボレーション・ダンス・カンパニー。今回のコラボレーションはIratxe Ansa Santesteban、リオン・オペラ・バレエ、ナチョ・デュアート・カンパニーなどで、ダンサーとしてヨーロッパを中心に活躍中。この時代にこそ見つめなおしたミドルイーストの女性を共通テーマとした、彼女との共演となる。ダンサーは彼女のソロ作品も含め、ニューヨークよりNohomi Barriuso、東京より安東真理子・渡辺由美を招いている。


<寸評> ニューヨークからという遠来の、男性舞踊手も女性舞踊手も、よく鍛えこまれた肉体の魅力をいかんなく発揮していたし、それを讃美する客席の拍手も他を圧していた。
 構成は、東京からという女性二人のcontemporary・Danceをあいだに挟んで、男性のsoloと女性のsoloの三景。そのあいだの場面はいささか冗漫に流れた。異心同体か同心異体かは知らぬが、観念的イメージ先行のperformanceで既視感に満ちたものだ。
 さて私は、鍛えこまれた肉体の魅力、と書いた。鍛えこまれた肉体による動きの魅力とは、また少し異なるのではないかというのが、私の問題意識だ。彼らのPerformanceを肉体のダィナミズムと賞することはできても、動きのダィナミズムと賞するべきか、この点において疑問を呈しておきたい。肉体のダイナミズムと動きのそれと、その位相のズレは一見微妙な問題のようだが、彼我の隔たりは意外に大きく深いものだと、私などには思えるのだが‥‥。


◇PLANTATION
               -25分   -浜口慶子舞踊研究所-大阪
  構成・演出・振付:浜口慶子 衣装:伊東義輝
  出演:井下秀子 平山佳子 高島明子 森本裕子 石井与志子 
      中島友紀子 伊東卓家 デカルコ・マリー 中西朔
Message ~異界ざわめく
     道祖の神 わざや いかに~


<寸評> プロローグ冒頭の数十秒間は、即ち妖怪変化か魑魅魍魎か、彼ら一群の物の怪たちが姿をあらわす登場シーンは、奇抜な衣裳の効果もあってなかなかに魅力的だった。ところが群の動きが展開していくに及んで、その新鮮な驚きは掻き消されていく。
 昔からよく知るこの人の振付は、元来、あまりリズミカルなものではない。長所と欠点は裏腹なもので、かなり難しいことではあるが、群によるノン・リズミカルな動きの連鎖が、時に功を奏して、スケールの大きい表現を生み出すことがある。嘗て、そういえる作品をモノしたこともある作家だが、一昨年と今回、どちらもその地点からは遠く隔たっているのは寂しい。
 昨秋、一心寺シアターで演じられた作品を、時間制限のなかでコンパクトにまとめ変えたものというが、そのあたり整理の仕方も荒っぽいというか、大布を使った物の怪たちの大親分(文字通り大きかった)?の登場もアイデア倒れだろう。一群の物の怪たちの動きもまた精彩を欠いたものとしか映らなかったのは、再演に際して、新しく表象への課題を見出せないままに本番を迎えた所為かなどと思われるが、だとすればベテランの踊り手たちを多勢擁するチームらしくない後退ぶりだ。


◇フェルメール「眠る女」より-夢の中-
             25分?-佐々木敏恵テアトル・ド・バレエ-京都
  作・演出:前原和比古 振付:佐々木敏恵 
    バレエマスター:永井康孝 美術:大谷みどり
  出演:三浦美佐 水野英俊 永井康孝 浅田千穂 西村まり
Message 画家フェルメールの「眠る女」は興味深い。中央でうたた寝をしている女の有様は言うまでもなく、テーブルのワイングラスや布、奥の間に続く扉や光の情景など、見て楽しむには有り余る情報量だ。中でも、壁に掛かっている絵に描かれている(目を凝らしてみなければならないが)仮面の存在は非常に示唆的であり、作者の創作意図を空想するには格好の材料だ。今回のバレエ「夢の中」は、この偽りの寓意とされている仮面をヒントにして女の眠りの中に入り込んでみた。はたして聖女の見ている夢とは‥‥。


<寸評> Messageにあるように創作バレエの小品。画家と肖像画モデルの貴婦人、そして大きな絵の額縁の中に夏の夜の夢の妖精パックのごとき仮面をつけた男性と女性二人を配し、この道化たちが絡ん繰りなす男と女のコミカルな夢の中の物語。
 プロローグというより冒頭、一瞬だけ照らし出された、出演者紹介的なワンショットは洒落た演出。すべては貴婦人の夢の中の出来事か、はたまた画家もまた同時に見る夢の交錯か、単純なストーリィにみえて作者の仕掛けは意外にアイロニーたっぷりで複雑な心理劇ともみえる。
 その作者の仕掛けのなか、貴婦人と画家の動きも含めた表情性の、あまり豊かとはいえないこと、とりわけ画家役の踊り手からは、あまりうだつのあがらぬ朴訥を絵に描いたようなキャラクターしか見えてこず、演出が徹底されず曖昧なままに推移する。妖精パックよろしき仮面の男性の狂言廻しぶりだけが際立ち、客席の笑いを誘う。
 画家役の白いシャツとベージュのズボンというまことに地味な衣裳も、作・演出の深謀遠慮あってのことと思われるが、どうやらその狙いは空振りに終ったようで、客席まで届かない。後半繰り返しにも見えて長く感じてしまったのは、貴婦人と画家、この踊り手たちの芸質に、演出の狙いを咀嚼し表象しうる土壌の乏しきが所為だろう。


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