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あるがままで
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怒りを創造する心のしくみ
疑心暗鬼
誇大妄想
被害妄想
「怒り」は、誰にとっても切実なテーマです。その最大の理由は、人間関係に支障を来すこと。自分にとって、ストレス・苦しみになることです。
だから「怒らないようにしよう」と考えるわけですが、現実には「つい怒ってしまった」「やってしまった」ということばかり……。
「怒ってはいけない」と頭ではわかっているのに、なぜ怒ってしまうのでしょうか。
仏教流に考えれば、それは「怒りの正体が見えていない」からです――。
怒りのほとんどは、理由がない
怒りは “心の反応”のひとつ。不快な反応です。その理由は、世間ではさまざまだと思われていますが、仏教的には、実は2種類(!)しかありません。
ひとつは「物理的な刺激」によるもの。たとえば、危険な目に遭ったり、体に触られたりしたときの不快感――これは、生き物に共通する最も原始的な怒りです。
これ以外の怒りは、1種類だけです。つまり「精神的な刺激」による怒りです。
たとえば、嫌いな相手の振る舞いや、思いどおりに進まない現実への怒り、いつ始まったのか自分もわからない慢性的なイライラなど――これらはすべて、肉体ではなく、心が刺激を受けて生まれた反応です。
しかし、不思議な現象だと思いませんか? なぜ物理的な接触がないのに、心が刺激を感じて怒ってしまうのでしょうか?
心が刺激されてしまう理由――そこを突き止めることが、「怒らない方法」の決定的なポイントになります。
初公開・怒りを克服する3つの対策
ブッダの知恵を生かせば、怒りのタイプは3つです。そのタイプごとに「怒らない方法」を、まとめてみましょう。
《その1 貪欲タイプの怒り》
ひとつは、「貪欲」つまり “欲求過剰”(求めすぎ)な精神状態からくる怒りです。
たとえば「もっと高く評価されたい」「もっと業績を上げたい」「もっと早く、もっと高いスコアで試験に受かりたい」といった願望です。
人間関係で「あの人とは話が合わない」「わかりあえない」という不満・ストレスも、意外かもしれませんが、貪欲タイプの怒りだったりします。
つまり、相手に「わかってほしい」「こうあってほしい」「味方でいてほしい」という過剰な期待や要求が、そうはならない現状に「怒り」をつくり出しているのです。
<対策>
こうした求めすぎタイプの怒りは、「私が求めすぎているんだな(欲求過剰なんだな)」と客観的に理解することが、コツになります。
というのも、求めすぎている精神状態では、何も変わらないからです。他人は、自分以上に変わりにくい(期待できない)相手なので、そのままでは、不満も、相手との衝突も、続いてしまいます。
そこで、求めすぎている状態に気づいて、「考え方を切り替えよう」と考えます。「自分に今できることは何だろうか?」と、自分に聞いてみるのです。
体を動かす作業。自分の役割。自分にとって有意義で、楽しいこと。できることは、意外とたくさんあります。自分の持ち分・領域のほうに心を向けることを基本とするのです。
こうした心掛けを、仏教の世界では「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」と表現します。反応するより、自分の足元をよく見よう、という意味です。
《その2 怒りタイプの怒り》
ふたつ目は、「怒り」がつくる怒りです。奇妙な言い方ですが、「すでにある怒りが、あらたな怒りをつくり出している」状態です。
たとえば、過去にイヤなことがあって、怒りが残っていたとします。すると、心は、持続する(執着する)性質を持っているので、その怒りで別のことに反応しようとします。
その刺激となるのが、「不快な過去の記憶」や「他人の欠点」や、「これは許せない」と思える世間の話題です。これらに反応して、新たな怒りをつくり出すのです。
これは、いわば「怒りの自家発電」。過去の怒りをエネルギーにして、新たな怒りを生んでいる状態です。
「怒りっぽい人」というのは、その一例です。理性では「怒ってはいけない」と思いつつ、心に残っている「怒り」でつい反応してしまうのです。
怒りがぶり返すごとに、正しい言葉で切って返す
<対策>
この怒りにも「心の理解」から入ります。「過去の怒りが残っている。でも今は関係ない」と、はっきり自覚するのです。
心にくすぶっている怒りは、今とはなんの関係もありません。心にとどまっている「感情の残りかす」みたいなものです。だから、
「この残りかすの怒りだけ、解消すればいいんだな」と考えましょう。
そのうえで楽しいこと、たとえばスポーツとか、食事とか、気の合う友だちと飲みに行くことなどに時間を使って、「怒りのお掃除」に努めます。
このタイプの怒りで大事なのは、後で「思い出さない」ことです。過去の怒りは、過去のもの。思い出すだけ、自分がソンです。そこで、
「過去の怒りを、今怒る理由にはしない。忘れていい怒りなのだ」
と、言葉にして(念じて)みましょう。なかなか消えない怒りもありますが、そうした怒りがぶり返すごとに、正しい言葉で切って返すのです。
《その3 妄想タイプの怒り》
もうひとつが、「妄想」が生み出す怒りです。妄想とは、現実に存在しない、頭の中にしかない思いのこと。この妄想が実に厄介、しかもバラエティに富んでいます。
たとえば、イヤな過去を思い出して、怒りを再発させる。これは、先ほどの「怒りタイプの怒り」ですが、最初の怒りを長引かせてしまうことに力を貸しているのが、「記憶」という名の妄想です。
また、人がよくやる良しあしの「判断」――つまり「自分は正しい。相手が間違っている」という思いや、他人と比較したり、優劣・勝ち負けにこだわったりという心理も、妄想にあたります。
さらには、怒らなくてもいい(怒ってもしようがない)ひとごと、たとえば世間をにぎわす事件や話題に、「まったく!」と1人で憤慨している状態も、妄想して怒っている状態です。
つまり、過去も、判断も、ひとごとも、心の状態としてみるなら「妄想」です。これにとらわれると、暗い怒りが募っていきます。
「小さなことに腹が立つ」「なぜかいつもイライラしている」「最近楽しくない」と悩んでいる人は、大勢います。
こうした怒りの根っこにあるのは、妄想なのです。
<対策>
妄想への対策は、仏教の世界にはたくさんあります。今回は、なかでも決定的に大事な心掛けを、ひとつ紹介しましょう。それは、
「事実と妄想は違う」
という理解です。これはシンプルですが、革命的な力をもった理解です。
事実とは、妄想の外にあるもの。いわば、脳の外・自分の外に客観的にあるものです。
今目の前にあるもの――その相手や、家族や同僚や、モノや、職場は、自分の妄想以外のところに存在している事実です。
これに対して、頭の中で、言葉で考え、映像で見るものは、妄想です。
この妄想が消えると、どうなるでしょうか? すると、妄想が作り出す怒りも、消えてしまいます。
たとえば、人間関係で考えてみます。相手がこちらに視線を向けてきた、イヤミを言ってきた、非難・中傷をぶつけてきた、としましょう。
ここで反応すると、瞬時に妄想にのまれます。つまり記憶に刻んで、思い出して、相手を裁いて、攻撃して、という精神状態に陥ります。これが、妄想が作り出す怒りです。
では「事実確認にとどめて、決して妄想しない」という態度なら、どうなるでしょうか。求めないし、思い出さないし、判断もしない、としたら?
そのときは、「相手の言っていることは、理解できます(でも反応しません)」という態度に変わります。
もちろんなかなか難しいことです。でも、妄想さえ捨ててしまったら、多くの怒りは消えてなくなります。そのことは、理解してもらえるのではないでしょうか。
ブッダは妄想ではなく理解で返した
興味深い例として、『原始仏典』という古い仏教書のエピソードを紹介しましょう。
ある日ブッダは、嫉妬に駆られたバラモンに、さんざん悪口をぶつけられるという災難に遭遇しました。周りの人は青ざめたり、激高したりと、騒然となりました。
でも、このときブッダが返したのは、意外な言葉でした。
「あなたがふるまったごちそうを客人が食べなかったら、その食事は、あなたのものになるだろう」と語り、こう続けたのです。
「私は、あなたが差し出す食事(つまり怒りの言葉)を受け取らない。だからそのまま持って帰るがよい」
平たくいうと、「あなたが食べるのは、あなたの自由だけど、私は食べません(反応しません)よ」というのです。実に合理的で明快な返し方だと思いませんか。
確かに、外の世界も、他人も、いろんなことを言ってくるし、よからぬ考えを向けてきます。でも、それに反応したら、自分の中に苦しみが生まれます。
その苦しみを長引かせるのが、妄想です。ひとの心には、記憶や、良しあしの判断、先行きへの不安や心配、社会にあふれる情報や話題など、妄想する材料は、いくらでもあります。
しかしそのままなら、怒りは、いつまでも続くことでしょう。
だからブッダに学んで、「怒りをつくっている妄想に気をつける」のです。
そこで、こんな心構えで日常を過ごしてみましょう。難しいけれど、練習です――。
・外の世界・相手に、妄想から入らない。「期待」や「判断」に走らない
・そうした自身の思いに、「これは妄想」と、まずは気づく
・不愉快な相手には、「あなたにとっては、そうなのですね(理解はできます)」という立場に立つ
妄想せずに、理解から入るように練習するのです。相手に対しても、どんなときもです。