宗派によって表現は異なりますが、仏=神=純粋なる宇宙エネルギー=大愛です。
私たちの魂は、この純粋なる宇宙エネルギーという大いなる愛であり命のわけ御霊であります。
今回はこの真理をベースに、成仏するということはどういうことなのか、意識を拡張させて説明します。
例えば、仏教でいうこところの成仏は『仏に成る』と書きます。
そもそも『仏に成る』という表現はどういうことでしょう?山に篭って修行することが必須なのでしょうか?滝に打たれたり生死をかけた肉体的極限を乗り越える必要があるのでしょうか?
先日ある尊い魂のお葬式に参列しましたが、お経をあげたお坊さんは、肉体を離れた霊が49日目に釈迦の弟子になるために、これから厳しい修行が待っている…と親族参列者に説明していました。
その魂は今生で肉体的にも精神的にも、とても厳しい人生を送って参りました…人生自体が荒修行のようなものでした。ようやく不自由な肉体という殻を脱ぐことができ、自由になったその魂に対して、まだ修行をしろと言うのです。
そんなことをしないと釈迦の弟子になれないとか、仏になれないなんて、神も仏もあったもんじゃないと思いませんか?
親族はどのような思いでこの話を聞いていたのでしょうか。
こうして観ると、宗教的発想による仏に成るという表現は、つまり仏と魂(霊)は別々のものであるという、エネルギー分離状態を表しています。
クンダリーニエネルギーを上昇・体内エネルギーを昇華させ、宇宙エネルギーと融合すると、宇宙エネルギーと自分とのエネルギーには境はなく、宇宙と自分は一体・ひとつだという理解を体験を通して得ることができます。 つまり、これはワンネスを体験するということです。
私たちは元々純粋なる宇宙エネルギー=神=仏の一部であり、わけ御霊であります。
魂はもともと仏エネルギーの一部なのですから、成仏しなければならないことなどないのです。
仏教の言うところの成仏するためにおおくの修行やお布施が必要なのは、成仏することや釈迦の弟子になるためには、魂(霊)を、お金を稼ぐための道具にしておく必要があるからなのです。
宗教的な儀式、例えば荒修行を行ったりすることと、釈迦の弟子になるということや成仏するということは同じ低い次元意識です。
(なぜなら、高次の意識では魂は元々仏なのですから)
そんなことをしなければ悟りを開いたり成仏することができないなら、この世俗で、悪魔が作ったシステムの中で生きている魂は、一人として浮かばれないということではないですか?
山に篭り荒修行し、人前に出て腰が低いとオーラがあるように見えるのは、宗教的な儀式である荒業すると悟ることができるという世俗の観念による偏見ではないですか?
つまり観念の漬物になっているだけということではないでしょうか。
私たちは悪魔が支配してきている世界で偏見(洗脳)を植え付けて、観念概念という名の漬物になっていますね。それはこの四年間ずっと述べてきていることです。
では、どうすれば成仏できるかという結論を言うと、一人一人の魂はもともと成仏しているのですから、漬物になったキュウリ(自分)を生の状態に戻すことができれば、自分の本質つまり仏(神)我を思い出すことが可能だということではないでしょうか。
つまり観念概念を棄てればいいことなのです。
例えばお坊さんは修行のために寺などを掃除したり、厳しい労働をするようですが、働く主婦は、毎日毎月のゴミ出し掃除洗濯、そして収入を得るための仕事。おまけに出産や子育てもオプションで付いてきます。
ですから、家族のために誠心誠意尽くしているなら、わざわざ滝に打たれる必要などないのです。
わざわざ滝に打たれる体験を望むということは、それだけ世俗において苦難を欲しているということではないですか。肉体的極限まで経験してようやく、主婦並みの体験ができるということですね。
儀式に拘る必要などないのです。今となっては、儀式はあくまでも神や仏から私たち魂を分離させる手段や方法になってしまっているのですから…
さあ、いかがでしょうか?
あなたはもともと成仏しています。成仏していることを思い出すためのプロセススイッチをオンにすればいいだけなのです。私たちは元々釈迦とはきょうだいであって、弟子になどなる必要はなく、もうこれ以上、辛く苦しい修行などする必要もありませんね
辛く苦しい修行こそ、悪魔にとってもってこいの苦難なのですよ。
つまり、あなたが日々幸せでいることは、大宇宙への大いなる貢献になるということなのです。
自由と平和へと解放されますように。
あるがままで