ありのまま日記

好評につき再掲載します 48

第106回目 満月を知らない三日月

2011-08-10 23:04:43 | ありのまま講座

この世に生きる人々が一番陥りやすい錯覚とは、あなたはあなた、わたしはわたし。あなたと私は別々の存在だという分離感です。あなたと私は目に見えて違う顔形であり一人間として別々に生きているからです、

では、なぜ自分が他人に行なったことが自分に返ってくるのですか?

それは他人とは、分離して見える自分の一部だからです。

例えばあなたの手の人差し指が中指にぶつかって中指に傷がついてしまったら、中指は人差し指に仕返しするでしょうか?例え中指が仕返ししたとして人差し指を傷つけたとしても、中指も傷の痛みを感じるはずです。なぜならひとつの手に中指も人差し指も一緒に存在しているからです。

指が傷をおったことが、意図的であろうとなかろうと、傷つくということは手全体に痛みが伴うことになります。

どうですか?

これでもあなたは他を否定批判しますか?

他を否定批判するということは、自分自身を否定批判するということです。

さて、わたしがお話ししたい内容はこれからが核心へと参ります。私達はひとつの聖なる大きな命を共有しているということは前にも述べました。

そして現在、目に見える世界に大きな変革か起こっています。長い年月の中で起こった情報が隠され捏造されてきたことは確かです。その真実を知ることや情報を修正することを覚醒すると表現することがありますね。確かにそれも外の世界への覚醒です。

しかし、それはどこまで知っても自分とは分離した外側の世界の出来事であり、ネガティブな他人が犯した罪にしかすぎませんね。

あなたが高次の意識を望むなら、覚醒するということの意味を履き違えないことです。

光には光の役割がある。
闇には闇の役割がある。

その事の意味を理解せずして、八百万の神の本質は見抜けません。どのような表現体でも、卑劣な悪魔でも、心から愛し抱きしめる勇気があるなら話しは別ですが。わたしたちは一つの命を共有している、すべては密接に繋がっていて、自分の一部だと実感しているのなら心は自然にそれができるはずです。

例えば、見える世界の物的証拠しか信頼できないのは、花を目でみるだけで香りを楽しむことが出来ないことと同じです。要するに、一つの側面しか見ることができないのは、まるで満月を知らない未熟な三日月みたいなものですね。(いつかは満月になるのだろうけれど…)

私達は目に見える表現に囚われすぎています。それをある意味洗脳されていと言います。こうあるべきだ!が多すぎますね。それがわたしたちを本質から遠ざけてしまうんです。世の中が勝手に捏造した神や聖者を本物だと勘違いし思い込んでいるんです。あなた自身を、そしてあなたの隣にいるひとの本質を見抜けず否定し批判ばかりに勤しむ。常にジャッジして自分を正当化したがる。

世の中を良くしようと外の世界を変えようとしても、自分の中の闇に気付けずしてこの星でこの次元に生きる意味があるのでしょうか?気づけなければ、また違う低次元の惑星でやり直しなんです。

満月は三日月のことがよくわかります。
しかし、三日月は満月のことは計り知れないのです。同じ月でも、全く違うんです。

人も月のようなものです。

この次元上昇のチャンスに、ぜひ満月に戻ってください。
あなたはもともと満月なのですから。





ありのままで









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