今RadioheadのDaydreamingを聴きながら目の前を白い雨雲が早く流れているのを見ている。
煙のような雲がどこへ流れ着くのだろう。
次の曲「Decks Dark」もすごく好きになった。
しまつた、プロポーズは日本語ではなかつた。(今頃気づいた)余がとんでもない馬鹿で天然だということが皆様にばれてしまう。
しまつた事を書いてしまつたあ。
もう、こうなつたら、自棄だ。
余は今日から即興詩人になることにした。
さつそく、詩が浮かんだので書いてみるマロミ〜。
(昨夜また「妄想代理人」を全話いっぺんに観て8話と最終話で泣いたよ)
「影」
人間つて、よく、逃げるつつつて言うが
いつたい、なにから逃げる?
ははは、んなもん決まつとる。
そは、影だ。
それを良く人間つて現実逃避とか言うよね。
では訊くけども、現実つてなに?
よーく、よーく、考えてみたい。
現実逃避した場所はほんまに現実ではないのか。
では何処にいる。
❶空想の世界
❷妄想の世界
❸夢の世界
❹虚構の世界
❺死の世界
❻天国
❼地獄
❽漫画の世界
❾ゲームの世界
➓小説の世界
11.映画の世界
12.アニメの世界
13.ヴァーチャルの世界
まあこんなところじゃないか。
現実逃避というからには、そこは現実ではないはずだ。
何故なら現実から逃避した処がまた現実だつた場合、何してんねん、という話になる。
それ逃避やなくてただこつちの現実からあつちの現実へ移動しただけですやんけ。
そは、逃避と言うべからず。
それは逃避ではない。
現実を直視しろ、そうよく言うけれども
現実と、そうではないものの区別つてどうなつてるんだ。
現実と幻想
現実と理想
とよくいうけれども
「幻想ばかり見ていないで現実を受け容れろ」そうは言つても、現実つてなんだろう。幻想つてなんだろう。
🆗ここを解りやすく区別しよう。
現実=不快なもの
幻想=快いもの
こうしよう。はつきりとした区別だ。要は現実と幻想の区別は自分で決めるものであり、その感覚と感情が知つている。
とどのつまり、人間は不快なものは現実と呼び、快いものは幻想で括りたい性質を持っている。
しかし、その区別は簡単に崩れてしまうものなのである。
何故ならば、ああ俺は今幻想を見てるよな、これじゃあダメだ、現実を見なくては。そう言つて今の自分はダメなんだと思うことで、幻想の中に居ながら快さを手放そうとするからである。
幻想=快いもの
これが破壊される。人間は幻想を快い皮を被った快くないものとしてそれを壊そうとする。
しかし快くないものとは即ち、現実である。
現実=快くないもの
人間は幻想を壊そうとして現実を壊そうとする。
実は、ああ俺は幻想を見ている。と気づいた瞬間から現実になるのに、その現実を壊そうとする。
幻想をいつまでも見ていてはダメだと。
でも彼は幻想を本当のところで見てなどいない。そこは苦しい場所であり、そこは現実的である。
現実から逃避しているのではなく、現実を見るために彼は幻想を見ようとしている。
幻想=理想
理想があるが為に、現実は苦しいものになる。
幻想を思い浮かべれば思い浮かべるほど、人間は現実から逃げられなくなるのである。
現実に拘束され、現実でしか生きてはいけなくなる。
皮肉な話、現実から逃避するほど現実に暮らすことになる。
苦しく逃げ出したくなる世界。
なんでそうなるかというと、幻想とは空っぽでなんにもないというのを人間は潜在的にわかっているからである。
だから不快なものから逃げて快いものを手に入れようとするが、快いものはまるで砂塵でできたパンのように手に入れた瞬間から崩れ始めるので、それを食い止めようと苦しんでもがき始める。
人間とは何処へ行つたつて、何をしたつて、現実からは逃れられないようにできている。
快いものにずっと浸って生きることが叶わない。
現実を生きなければならないのではなく、人間は現実を生きたいと思つている。
それは現実にこそ喜びがあることを人間が知っているからである。
本当に現実逃避している人が在るなら、その人は喜びも苦しみも不快も快さもなんにもないところで生きている。
感覚をすべて失ったところに生きている。
それは死の世界か?ノン。そんなこと死んでみないとわからない。
死ぬことは、それは逃避とは言えない。
むしろそれまでより遥かに苦しむかもしれない可能性がなきにしもあらずなのだから。
現実とはまるで、自分の影だ。
逃げても逃げてもついてくる。
楽な場所へ、明るい方へ逃げるほど影は薄くはなるのだけれども、その薄い影は消えることはない。
むしろ安易な明るみへ逃げることによって現実という影は不気味にも薄く笑いかける。
楽な場所、安易な明るみとは即ち、安易な快さを求めることである。
簡単に快さを求めようとすればするほど薄気味悪い自分の影がそこにぼわっと立っていて
気色悪さは消えず、結句人間は薄っぺらい快さしか感じられない。
どうしたらいい?
苦しいよ。自分の影から逃げることができない。
この影を消す場所、影を消す場所…
光と影がもやもやと区別されたその空間に私は一つ真っ暗な巨大なドームを見つけた。
近づくと得体の知れないブラックホールのように私を吸い寄せる。
この中に入ればきっと影は消えるだろう。こんなに真っ黒な空間なのだから。
私はその大きな闇の中へ入った。
最初は何も見えなかった。
私の影は消えたのではない。
私の影はこの巨大な闇と一体化し私を包み込み始めた。
おおよそ私はそれを予想していた。
しかし仕方がなかったのだ、此処以外に私の居場所は見つけられなかった。
巨大化した私の影は私を休ませる一瞬さえ与えはしなかった。
今までの苦しみはちっぽけだと感じるほどの苦しみの中で息をし続けていると、次第にその空間の中に様々なものが見え出してきた。
それらは私の苦しみをさらに深めるものばかりだった。
しかしそれらは同時に愛おしくてならないものばかりだった。
私は私の巨大なる影の中に生きて苦しみながら愛おしいものたちに囲まれていることの喜びを感じている。
その喜びは日々増大している。と同時にこの空間の影も日々膨張しているようだ。
私はこうして自分の影を育てながらその影の中でしか見つけられなかったものたちと共に生きることが何よりも喜びであり、また何よりも苦しくて仕方ないのである。
私と私の影の写真
煙のような雲がどこへ流れ着くのだろう。
次の曲「Decks Dark」もすごく好きになった。
しまつた、プロポーズは日本語ではなかつた。(今頃気づいた)余がとんでもない馬鹿で天然だということが皆様にばれてしまう。
しまつた事を書いてしまつたあ。
もう、こうなつたら、自棄だ。
余は今日から即興詩人になることにした。
さつそく、詩が浮かんだので書いてみるマロミ〜。
(昨夜また「妄想代理人」を全話いっぺんに観て8話と最終話で泣いたよ)
「影」
人間つて、よく、逃げるつつつて言うが
いつたい、なにから逃げる?
ははは、んなもん決まつとる。
そは、影だ。
それを良く人間つて現実逃避とか言うよね。
では訊くけども、現実つてなに?
よーく、よーく、考えてみたい。
現実逃避した場所はほんまに現実ではないのか。
では何処にいる。
❶空想の世界
❷妄想の世界
❸夢の世界
❹虚構の世界
❺死の世界
❻天国
❼地獄
❽漫画の世界
❾ゲームの世界
➓小説の世界
11.映画の世界
12.アニメの世界
13.ヴァーチャルの世界
まあこんなところじゃないか。
現実逃避というからには、そこは現実ではないはずだ。
何故なら現実から逃避した処がまた現実だつた場合、何してんねん、という話になる。
それ逃避やなくてただこつちの現実からあつちの現実へ移動しただけですやんけ。
そは、逃避と言うべからず。
それは逃避ではない。
現実を直視しろ、そうよく言うけれども
現実と、そうではないものの区別つてどうなつてるんだ。
現実と幻想
現実と理想
とよくいうけれども
「幻想ばかり見ていないで現実を受け容れろ」そうは言つても、現実つてなんだろう。幻想つてなんだろう。
🆗ここを解りやすく区別しよう。
現実=不快なもの
幻想=快いもの
こうしよう。はつきりとした区別だ。要は現実と幻想の区別は自分で決めるものであり、その感覚と感情が知つている。
とどのつまり、人間は不快なものは現実と呼び、快いものは幻想で括りたい性質を持っている。
しかし、その区別は簡単に崩れてしまうものなのである。
何故ならば、ああ俺は今幻想を見てるよな、これじゃあダメだ、現実を見なくては。そう言つて今の自分はダメなんだと思うことで、幻想の中に居ながら快さを手放そうとするからである。
幻想=快いもの
これが破壊される。人間は幻想を快い皮を被った快くないものとしてそれを壊そうとする。
しかし快くないものとは即ち、現実である。
現実=快くないもの
人間は幻想を壊そうとして現実を壊そうとする。
実は、ああ俺は幻想を見ている。と気づいた瞬間から現実になるのに、その現実を壊そうとする。
幻想をいつまでも見ていてはダメだと。
でも彼は幻想を本当のところで見てなどいない。そこは苦しい場所であり、そこは現実的である。
現実から逃避しているのではなく、現実を見るために彼は幻想を見ようとしている。
幻想=理想
理想があるが為に、現実は苦しいものになる。
幻想を思い浮かべれば思い浮かべるほど、人間は現実から逃げられなくなるのである。
現実に拘束され、現実でしか生きてはいけなくなる。
皮肉な話、現実から逃避するほど現実に暮らすことになる。
苦しく逃げ出したくなる世界。
なんでそうなるかというと、幻想とは空っぽでなんにもないというのを人間は潜在的にわかっているからである。
だから不快なものから逃げて快いものを手に入れようとするが、快いものはまるで砂塵でできたパンのように手に入れた瞬間から崩れ始めるので、それを食い止めようと苦しんでもがき始める。
人間とは何処へ行つたつて、何をしたつて、現実からは逃れられないようにできている。
快いものにずっと浸って生きることが叶わない。
現実を生きなければならないのではなく、人間は現実を生きたいと思つている。
それは現実にこそ喜びがあることを人間が知っているからである。
本当に現実逃避している人が在るなら、その人は喜びも苦しみも不快も快さもなんにもないところで生きている。
感覚をすべて失ったところに生きている。
それは死の世界か?ノン。そんなこと死んでみないとわからない。
死ぬことは、それは逃避とは言えない。
むしろそれまでより遥かに苦しむかもしれない可能性がなきにしもあらずなのだから。
現実とはまるで、自分の影だ。
逃げても逃げてもついてくる。
楽な場所へ、明るい方へ逃げるほど影は薄くはなるのだけれども、その薄い影は消えることはない。
むしろ安易な明るみへ逃げることによって現実という影は不気味にも薄く笑いかける。
楽な場所、安易な明るみとは即ち、安易な快さを求めることである。
簡単に快さを求めようとすればするほど薄気味悪い自分の影がそこにぼわっと立っていて
気色悪さは消えず、結句人間は薄っぺらい快さしか感じられない。
どうしたらいい?
苦しいよ。自分の影から逃げることができない。
この影を消す場所、影を消す場所…
光と影がもやもやと区別されたその空間に私は一つ真っ暗な巨大なドームを見つけた。
近づくと得体の知れないブラックホールのように私を吸い寄せる。
この中に入ればきっと影は消えるだろう。こんなに真っ黒な空間なのだから。
私はその大きな闇の中へ入った。
最初は何も見えなかった。
私の影は消えたのではない。
私の影はこの巨大な闇と一体化し私を包み込み始めた。
おおよそ私はそれを予想していた。
しかし仕方がなかったのだ、此処以外に私の居場所は見つけられなかった。
巨大化した私の影は私を休ませる一瞬さえ与えはしなかった。
今までの苦しみはちっぽけだと感じるほどの苦しみの中で息をし続けていると、次第にその空間の中に様々なものが見え出してきた。
それらは私の苦しみをさらに深めるものばかりだった。
しかしそれらは同時に愛おしくてならないものばかりだった。
私は私の巨大なる影の中に生きて苦しみながら愛おしいものたちに囲まれていることの喜びを感じている。
その喜びは日々増大している。と同時にこの空間の影も日々膨張しているようだ。
私はこうして自分の影を育てながらその影の中でしか見つけられなかったものたちと共に生きることが何よりも喜びであり、また何よりも苦しくて仕方ないのである。
私と私の影の写真