自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

5.15事件/藤井斉海軍中尉/陸軍士官学校生

2018-06-26 | 近現代史

本稿では3人のカリスマ的教祖(北一輝、権藤成卿、井上日召)とその信奉者藤井斉中尉を主として取り上げて彼らの思想と立ち位置、影響力が透けて見えるようにしたい。時期的には多少前後にはみ出ることもあるが1931年の出来事である。

北の家は佐渡の代々造り酒屋、権藤の家は久留米の藩医・東洋古制度学、日召の家は群馬の村医者で、三人とも素封家の出である。アカデミーのエリートコースには進まず、それぞれ洋書、漢籍、修行で当代最高の教養を修めて、いわゆる昭和維新のそれぞれの事件に教祖としてかかわった。
当然三人三様、思想に異同がある。相容れない点だけ挙げておく。北は洋学を基礎とする近代主義者、国家主義者。日本主義を利用の対象と考えている。権藤は漢学(支那学)を修めた郷土自治主義者。アンチ官治中央集権、反資本である。日召は反外来思想、純粋日本主義者である。二項対立を前提としている弁証法的思考はとらない。
それぞれ西洋、東洋、日本の伝統と思想を揺籃とする三思想家は互いに敬意を表しているが自己の主義を枉げることはない。当然事件との関わりにも濃淡が出て来る。北は2.26の、権藤は5.15の教祖的存在となった。
5.15事件の実行部隊の司令官は藤井斉海軍中尉である。かれは事件の数ヶ月前に戦死するから、5.15事件を準備した革命家とすべきであろう。かれは平戸の産で、正月の餅代にも困るような、その日暮らしの炭鉱労働の家庭に生まれた。よくあるケースだが彼も養家から学校に行かしてもらった。軍職についてからは老齢の父と生計を支える妹に仕送りを続けた。
だから彼のめざす革命は、自分の家族の衣食住、一家団欒、ムラの自給自足と相互扶助を担保するものでなければ革命ではなかった。そこに、彼が権藤の自治民範を革命の聖典とする原点があった。彼は、北の国体論の影響もあったと思うが、みずからの天皇観を確立し、起爆では日召に呼応し、建設案では権藤を教科書とし北を参考とした。

彼は1931年正月からほぼ1年間の日記を遺した。「此の日誌は遺言也 同志諸君、実現を頼む」
1月10日 雪 土 「(前略)荒木六師[団司令官]は覚悟十分、鹿児島は菅波の配下、栗原少尉大丈夫、・・・」  日召が四元義隆を伴って九州に来て佐世保で藤井と情報交換した日の記録。
藤井は、同志を求めて鹿児島から青森まで、脈のある尉官クラスの軍人にアタリをつけ、値踏みをした。革命について理解を深めることを期待して権藤著『自治民範』を手渡した。一般に文書を渡すのはオルグの常套手段である。
5月下旬には決起の全体構想に目鼻がついた。
民間日召一統=起爆、海軍藤井一統も起爆、軍部(主として陸軍)は炸薬 
日召一統のための軍資金と短銃の手配
ただし、坊主は殺すな。「此の人は革命諸人物を纏めること。革命後の堕落を防ぐ為に是非必要の人物なればなり」 昭和維新は明治維新堕落の轍は踏まないぞという決意
「北氏等軍部との提携、その動かす力は如何」 北、西田の道念を信頼
「参謀本部[ロシア班長橋本欣五郎大佐]系統は大川派」 似非革命、頼むに足らず
「只頼むべきは青年革命家のみ。菅波[三郎陸軍中尉、在鹿児島]、大岸[頼好陸軍中尉、在青森]の両兄への信頼益々盛なり」 
藤井は海軍青年将校を固めながら、革命成否の要と考えた陸軍にたいするオルグ活動に精力を傾けた。
5月24日、日召は、久留米で藤井、三上、菅波、大岸と会談して上記の決起の構想と覚悟を確認しあった。30日、日召と藤井は佐世保の待合?「群枝」[日誌中初見である]で祝杯を上げた。三グループの同盟が成り革命が成就する確信を得たことに安心立命して日召は柄にもなく「今や溶けて大空へ帰せるが如く感じ」浮かれた。こう記す藤井もまた気持ちが高揚していた。
次の日の車中師弟対話。大村湾に映る月美し。
和尚曰く。北は天才、智と情を有す。しかれども革命御前会議において権藤翁と対立するかも・・・。
藤井はいう。「北の言正しからば之を護るべし、しからずして独裁専横あらば殺すべし、権藤翁又しかり」

藤井斉の伝記はまだないと思う。かれの思想と人となりを示すエピソードを日誌(抄録)から拾っておきたい。
とにかく思考がしなやかで懐が広く深い。民族、階級、官位、主
義、履歴を問わず誰であれ何か革命に生かせる才能があれば役割をもたせる、「夜郎自大、己の才芸力能を誇り之を発揮せむが為に事を好むの輩たち」は排撃する、というスタンスである。
日本主義者、無産政党、共産党から有為の人物をリクルートすることを構想にふくめた。中でも共産党員の「その名声に淡く生命を顧みざる行動」(弾圧下の地下活動)に敬意をはらって学ぶ対象とした。ソ連共産党綱領を取り寄せて筆写した。もちろん天皇制を否定する綱領には真っ向敵対してのことだ。「彼らの思想、主義は時、処、位に偏執せるが」それを正せば「公同自治の大道」に立たせることができる。
「西欧の学、人為にして自然力を知らず、之れ欠陥なり」
「東洋、特に日本人の特性は綜合力と生命を其の儘に直感し得るの力と自由無碍、光風霽月[雨上がりの空のように澄み切った心境]の思想にあり。・・・何ぞ頑迷固陋なる、何ぞ騒々偏狭なる、共に不可」
藤井にとって国体は社稷にほかならない。社稷はアジアに共通の普遍的な祭祀と自治の伝統である。全人類の生活が拠るべきものである。ここから彼の大陸躍進と世界革命の願望が出て来る。「ああ、革命は時空に極限せらるべきものにあらず、革命は永久なるべきものなり」 
かれは支那の民族的抵抗を利己的だとして認めず、権藤の書に刺激されて100万人による満蒙屯田開発を空想した。空想はやがて革命後に出現が予想される不平浪人の活用という彼の「建設」策の一課題となった。この空想と青写真が関東軍により満州国で実現した
ことを歴史は教えている。
藤井=日召同盟が陸軍一統と違って内憂払拭、内治革命を優先し、外治には反応しないことを善しとしていることも指摘しておきたい。このままの体制で大陸に進出すれば「必ず失敗する」と言い切っている予見、先見のほうを重く受け止めたい。
藤井は、日召もそうだが、
陸軍を革命の主力に措定したが軍部独裁の恐れがあることをひと時も忘れていない。両者は自己革命、自己犠牲という厳しいフィルターを設けて同志を募った。その結果ほかの事情もあって実行部隊はそれぞれ海軍6名と陸軍12名の少数精鋭となった。力量不足を陸軍士官学校組が埋めている。
最後に藤井のプライヴェートの一面も紹介したい。藤井は木石でない。盟約が成った頃から佐世保の会合、宿泊の場所として「ともえ[群枝]」が頻繁に出て来る。何度か一緒に行楽に出かけている。同志二人(内一人は日誌中もっとも頻繁に出て来る東陸軍中尉)と「ともえ」の連中四人で舟を二艘借りて舟遊している。女性は内儀(資女、実に偉い女)、房子、千代香、米千代か? そして房子と恋に落ちた。大連に拳銃を求めに行った折ヒスイを買って帰った。「花柳の悠々完全に近し、呵々」(1年の回顧から)


藤井の期待を背負って陸軍士官学校生のオルグに当たったのは菅波三郎陸軍中尉である。その期待の大きさは1年の回顧のつぎの記述に見られる。「特に菅波を得し事は維新史上に特筆すべき事なり」 皮肉なことに、その菅波は陸軍の統制から抜け出さず5.15には関与しなかった。

菅波の影響は米津三郎→後藤映範→池松武志等へと広がった。士官学校生は菅波が薦めた北と権藤の著作を中心に右から左まで広く多読して短期間に国家改造から社会変革までみずからの天皇観、社会観に立って雄弁に語れるまでに成長した。3人の思想的到達点を以下に掲げる。三様に北あるいは権藤との異同が観られる。
十月事件前から菅波と接触のあった米津三郎から始めよう。米津は「宣言及綱領」を執筆して学内で配布しようとして危険思想保持者として退学になった。
米津の「宣言」はマルクス『資本論』中の白眉、ドキュメント的な工場論を想わせる農村破壊論である。「歴史は農民が発現過程である。或いは階級闘争となり或いは政権の争奪となる。[一行略]政権にしろ階級にしろ或いは文化にしろ、即ち歴史は農民の基礎の上を生産力によって推進される社会の流れである」に始まり資本主義に至る歴史と現状*を要約叙述して「農村の破壊はブルジョアージ[ママ]自身の自殺である。 ・・・哀しき晩鐘は鳴を[鳴り]革命の前夜を告げる」と宣言した。
*時代区分:豪族社会、大化の改新と貴族社会、武家社会、明治維新と資本主義勃興時代、欧州大戦と資本主義高度発展時代。
資本主義による農村の「都市プロレタリアート化」、都市・農村の困窮をもたらす収奪、搾取のからくりを原稿用紙8枚ほどに小気味よくまとめた米津の洞察力、表現力に私は感服した。額に入れて飾り時々朗読したいほどだ。前出匂坂資料Ⅲ‐647~650
青年将校がイメージする国家改造には、北一輝の改造論もそうだが、地主-小作制と国防のための徴兵、徴税が凶作飢饉の素因になっているという認識が乏しく、凶作飢饉の救済を強調するばかりである。戦前の農村は全国どこをとっても慢性的貧窮状態で豊作飢餓という言葉があったほどだ。米津だけが大地主と小作料を「正に怪物である」とこの上ない痛烈な言葉で批判した。
そして、世界市場の争奪戦たる帝国主義戦争なるものが始められ、「農村より又都市労働者より、而も彼ら純情なるもの達は、国家の為にの美名に幻惑されて喜び勇んで死地に就くのだ」「満州事変を一大画期として世界は一大転換を試みるであろう」と結んだ。
マルクスたちの共産党宣言は一世を風靡したが、米津の宣言は退学後の足跡同様空しく消えた。
米津の「綱領」も詳しく紹介したいが章別のタイトルをいくつか掲げておくだけにする。
①「大日本帝国は天皇之が統治権を使行す」「統治権の所在は国家にして、天皇は国民の一人なることを明白ならしむ。天皇の尊厳は其の血族にあらず、人格にあらず、統治権の代行権そのものにあり。即ち華族は勿論、皇族の特権階級としての存在は意義をなさぬ」 北一輝の国体論(というより国家論)そのままである。
②「生産資本の単位は農村及都市自治体とす」 権藤成卿、橘孝三郎の農本自治主義、地方分権主義、アンチ消費都市と軌を一にしている。
③「各自治体は農村又は都市機能に於いて有機的国家を構成す」 国家の管轄は、大都市の統括、外務、軍務、金融、交通、通信、高等教育に限られる。
④「自治体は統治機関を設け管理者を選任するものとす。選挙法は統制による」
⑦「議会は一院制とし、議員は自治体により推薦せられ県に於いて選定するものとす。選挙権はニ十才、被選挙権は二十五才以上とす」
⑧「革命政府は遷都を行ひ、1年間戦時給付を実行す。此の間消費都市の農村或は都市への解散を強制す」  前述ポルポトが実行して大惨事を招いた極端政策を連想させずにはおかない項目である。学術書『自治民範』ですら極端化すれば暴政の素になる。もって自戒すべし。
⑨「革命政府は朝鮮を半自治体とし満州を併合し、満洲には文化的施設を俟て半自治たらしむ」  併合は戦争に至らないという楽観的観測と、過渡期の不平等(半自治)を弁解するコメントあり。

つぎに後藤映範の予審尋問調書から引用する。[省スペースのため引用符合省略 文言は原文どおり]
後藤は最も菅波中尉に傾倒していたため菅波とほぼ同じ考えである。本人も認めている通り菅波の受け売りが多い。北と権藤の思想が陸軍青年将校と士官候補の間でどう消化されたか、何が消化不良になったか、異同を考える上で役立つ標準的文書である。
◇国体
君臣有機体説(天皇は頭首、臣民は股肱)にもとづく君民一体観 皇位は永久に万世一系 日本主義を基調とする 天皇は国民の人格向上に貢献 物格から明治維新の四民平等を経て昭和維新により完全なる平等人格へ向わねばならない(菅波の説)
◇政治 
君民一体 財閥=政党が君臣離間と国富壟断を招いた 金権によらない正しき議会政治必要 大改革の当初では民意を基礎とする正義の国士[彼らは西郷愛で結ばれていた]による独裁的形体も現憲法のもと一時的便法として可 直訳的共産主義・社会主義・ファシズム排撃
◇経済
統制ある自由の精神、農本主義にもとづき個人的営利主義的現資本主義経済機構を改革 大生産業、金融の国家統制 生産的各省設立 生産各部門の自治[大改革案となるとどの立案者も北一輝もふくめて改革音痴をさらす。GHQの農地改革の足元にも寄り付けない。資本主義を発展させた農地改革は農本主義そのものをも洗い流した]
◇大陸発展膨張政策
神武建国の詔勅「八紘[天の下]をおおいて宇[家]となす」を標榜する 国内で個人の正義を主張するように国際間でも国家の正義を主張すべし 満蒙、東部シベリア等の領有で人口兼食糧問題解決 全国民対外的(日露、日米)大戦争を覚悟、準備すべし [これは既述1907年に山県有朋元帥の命で田中義一中佐が作成した帝国国防方針草案(シベリアからフィリッピンまでを国防圏とする)の踏襲であり、職業軍人が普通に考えていたことだった。北一輝も同一の主張であるが、改革を経ない現体制で実行に踏み切ればドイツ帝国の二の舞になると警鐘を鳴らしている]
後藤は首相襲撃に参加して4年の禁固刑を言い渡された。

つぎに池松武志の「飛躍後の組織大綱」を紹介する。池松は米津に「宣言及綱領」の謄写刷りを頼まれた。その際自分の考えを反駁文として執筆した。これらの行為により不穏思想を抱く者として退学になった。
◇天皇
「天皇たるの位置、即ち皇位は血統的に継承されなければならない」 しかし「我々の指導者並びに我々の代表者としての尊厳」はあくまでも血統、肉体、人格ではなく「継承されたる皇位そのものに依存すべきである」[皇位だけ? 元首、統治権総覧は?]  これは巷で進められている天皇崇拝、貴種崇拝の批判である。池波ほど北一輝の天皇観に真面目に向き合って思索した軍人はいない。
天皇の人格と国民の人格の間に「皇族、家族の特権的存在」を許すべきでない。私的生活では天皇も国民同様サラリーにより生活すべし。
莫大な皇室財産を返上すべし、とまでは述べていないが、言外に真意が漏れている。天皇の人格論は「天皇サラリーマン説」と揶揄されるが、天皇と国民の間に距離のない国体を可視化するうえで欠かすことのできない拡大鏡であった。池波は反論している、「彼の観念論的な国体論者の、口には君民一致を唱へ、現実には国民との離隔を策するものとは同日に論ぜらるべきではない」
◇国民
「国民は完全なる人格的存在として直接各自治体及国家に連鎖する」 以下 実現すべき社会主義的な権利と義務がるる述べられている。項目だけ挙げておく。「個人的雇用関係は絶対に許されない」  各機関に参与する権利 労働対価を受け取る権利 居住権 「遺産相続は絶対に許されない」 必要な場合前払いで将来労働の対価を受け取る権利 25歳以上の男子参政権 教育費無償 衛生機関を利用する権利 生活保護を受ける権利 「婦人人権保護」に法的顧慮
矛盾打開後の組織[「飛躍後」同様用心深い表現の一例]
最大限拡張した地方自治を基礎とし、その統制と対外的団結のためにある程度の中央集権を有する[国家]組織

つぎに予審訊問調書から池波の変革思想を拾いまとめる。予審終結が事件から1年後だから公判はさらにその後になる。その公判で池波は当局幹部連中が傍聴に駆け付けるほど評判になった弁論を行ったが公判記録が陽の目をみていないため参照できない。「獄中記」もあるようだが見ていない。
◇国体の進化すべき方向
池波は、
一君万民の国体と「君民共治の自治制度」を目的とする昭和維新を説く。理想は「君を中心にして一国団欒」である。これは権藤成卿→藤井斉の考えそのものである。
◇政治機構
「天皇の統治権は神聖」であり統帥権は絶対である。政党政治の否定、政体の変更を目的とせず。 議会は二院制をとり、議員は職業別もしくは自治体代表とする。地方自治はその権限を拡張し、植民地及満州でも、教育を普及させて、将来内地並みにすべきである。池波は植民地差別を見聞しているだけにできるだけ速やかに撤廃することを願った。
◇経済機構[研究中]
私有財産額、営利会社資本額の制限(各百万、一千万) 土地の国有化もしくは自治体管理化 生産・分配・価格の政府統制 [北と権藤のコピー]

◇大陸発展膨張政策 
池波は国内人口食糧問題の解決を、友誼的に、拒まれたら強行的に、満洲を基点にした大陸に求める天賦の権利、平等なる生存権を留保している。北一輝同様、平等主義哲学の外交、大陸政策への布衍である。激越だった菅沼の扇動「王道宣布の聖戦」にくらべるとおとなしい。

池波は士官学校組の指導者として共同謀議と内大臣官邸襲撃に参加して15年の懲役刑を宣告された。



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