子供の喧嘩には「絶対に許さない」という事がないのだろうか。
いじめられたり、仲間外れにされたり、嘘を言いふらされたり、
先生に告げ口されたり・・・。
その度に傷付いて悩んで辛い思いをしても、
時間が経つと何事も無かったようにまた仲良くなる。
これを許しと考えて良いものなのか。
あるいは、まだ感情が未成熟な子供の鈍感さと考えるべきなのか。
学校や職場のような狭い社会で誰かを憎み続けるのは意外と大変だ。
忘れてしまった方が楽な場合もある。
だから大人は大抵のトラブルを「気にしない」という
意図的に鈍感になることで乗り切っている。
でも、プライドが忘れる事を許さない時、
また同じ嫌な思いを繰り返したくないという強い自己防衛本能が働いた時、
絶対に許さないという激しい感情が生まれる。
そうだ、許さないという感情は物凄く重くて
許さないでいる自分をも押し潰しそうになってしまう。
しかも、一度許さないと決めたら、
それが覆るには相当な長い時間が必要だろう。
そうしてずっと恨みを抱き続けることもまた苦しい事だ。
人を許すことは素晴らしいと言われる。
確かに、そうだろう。
特にキリスト教的な価値観ではそれを強く求められる。
しかし、許すとは一体誰のためなのだろう。
本当に憎しみから解放されたいのは、
憎まれている方なのか、それとも憎んでいる方なのか。
いじめられたり、仲間外れにされたり、嘘を言いふらされたり、
先生に告げ口されたり・・・。
その度に傷付いて悩んで辛い思いをしても、
時間が経つと何事も無かったようにまた仲良くなる。
これを許しと考えて良いものなのか。
あるいは、まだ感情が未成熟な子供の鈍感さと考えるべきなのか。
学校や職場のような狭い社会で誰かを憎み続けるのは意外と大変だ。
忘れてしまった方が楽な場合もある。
だから大人は大抵のトラブルを「気にしない」という
意図的に鈍感になることで乗り切っている。
でも、プライドが忘れる事を許さない時、
また同じ嫌な思いを繰り返したくないという強い自己防衛本能が働いた時、
絶対に許さないという激しい感情が生まれる。
そうだ、許さないという感情は物凄く重くて
許さないでいる自分をも押し潰しそうになってしまう。
しかも、一度許さないと決めたら、
それが覆るには相当な長い時間が必要だろう。
そうしてずっと恨みを抱き続けることもまた苦しい事だ。
人を許すことは素晴らしいと言われる。
確かに、そうだろう。
特にキリスト教的な価値観ではそれを強く求められる。
しかし、許すとは一体誰のためなのだろう。
本当に憎しみから解放されたいのは、
憎まれている方なのか、それとも憎んでいる方なのか。
許しについて書かれてあったので読ませて頂きました。私は一応クリスチャンで毎日「許してください」と願って祈る弱い者です。
で、解放されるべき者は・・・もちろん憎んでる方です。簡単に書けば、憎む人がいなければ、憎まれる人は絶対にありえないのですから。
人間は弱いですから、ちっぽけな自我、プライドのために収集つかず、怒り憎んでしまいます。そんな時、「あ~、また怒った。どうしようもないな俺は!」と自分の小ささを告白し祈れれば幸いですね。
http://teketeke.jp/
誰も憎まず誰にも憎まれずに生きて行けたら良いですよね。
でも、この世には、敢えて憎しみを耐え続けなければならない事があるのではないかと私は思うのです。
犯罪を犯した人間がそうです。特に重大な犯罪の場合、簡単に許されてはいけない。
憎まれる辛さに一生耐え続けることもできずに何の償いでしょうか。
同時に、被害者や被害者の家族に対して簡単に許しを説いて欲しくない。許しとは、時が来て、自然に身の内から沸き上がる感情であって、誰かに説得されるものではないのです。
人を傷つけたら、程度の差こそあれ、憎しみに耐えるのは当然です。
だから、傷付けられた人間が辛さを忘れたくて相手を許す事を私は単純に賞賛することが出来ません。相手を憎むことでも癒されないのは、さらに残酷な事だと思うからです。
やらねばと思います。
言葉やごまかしで憎しみから逃れることはできません。
そして相手の話を聞き、相手が望むペナルティを受けるべきと思います。
そうでないと憎しみは消えないです。
それは逆でもそうです。
相手が自分の望むペナルティを受け入れて
いくという行為にでたら憎しみを消すでしょう。
自然消滅は単なる時間経過で問題は消滅していません。
ただ毎日のことにおわれそればっかりでは憎しみでは暮らしていけないという現実に追われてるだけです。毎日その看板をしょわされたらきっとどんな人だって憎しみを継続しないように対処できるはずなんです。
ワタシはそう思います。
そしえペナルティで処理された互いの絆は
きっとどういう形ででも固いものになると思っています。
だから、結局、被害者側が憎み続ける事が辛くなって許してしまうのではないか。
そんな事を思ったのです。だから、決して許す事が素晴らしいという価値観に立っている訳ではありません。
朱雅さんが仰るとおり、普通の人間なら憎まれる事に苦しむはずですよね。そして、憎しみから開放されるために、自分の罪を悔い相手が許してくれるまでどんな償いでもしようとするはずです。
口先だけで謝罪の言葉を並べ、それを理由に許す事を求めるのはあまりに身勝手だと思います。