木というのは僕にはなんだか不思議なものに思えます。
ただソコにジッと立っているのに、
何かとても存在感があって、雰囲気がある。
「モノによっては」気になる。
大木になったりすると、
いつも何か「気」みたいなものを放っていて。
何か言いたげだけど、何も言わない。
あたりまえか。。。(‘・_・`)
木から気って......
でも「気」の語源としては少し絡んでいると思われます。
木=気......
お盆です。
実家に帰ったり、お墓参りをしたり、旅行にいったり。
きっと色々な時間を過ごしている方々がいるのでしょう。
お盆は精霊となったご先祖様を家にお迎えする習慣だと思いますが、
ご先祖様が好きだったものを捧げたり、食べたり......
そういうことも、
あちら世界の方々は凄く喜んでくれるように思います。
晴明水で仏壇などのお掃除をするのも喜ばれるかもしれません。
実は、このご先祖様という存在と「木」という存在が、
僕の中ではいつも強く結びついて感じられているのです。
よく「御神木」ということで、
寺社などで大きな木や特別な木が大切に祀られている所が多くあります。
僕には、それらは、その木のある寺社に縁のある方々や、
先祖や過人の方々の「気」のようなものを
強く宿している存在でもある様に感じられたりする事があるのです。
別段「不思議ちゃん」な話しをしているわけではないのですが......
例えば、こういう風に考えます......
何でも良いので自分がイメージ出来る「大きな」木を想像してみます。
御神木の様なものでなくても、
印象に残る好きな木でも、
近所のモノでも、何でも。
その大きな木の、
トアル枝の先端でヒラヒラと風にソヨいでいる一枚の緑の葉っぱが自分。
その自分がついている枝には他にも沢山の葉っぱがついています。
ソレは家族。
その自分や家族がついている枝の根元の方にも沢山の葉っぱがついています。
ソレがご先祖様。
そうなるとその枝葉全体は自分の家系を表していることになります。
その枝もよく見ると、
もう少し太い枝から枝分かれしていることに気付きます。
自分の枝とは違う方に枝分かれした枝葉は、
もしかしたら親戚の家系かも知れません。
その先にはさらに太い枝も......
また違う方に分かれた枝葉達も沢山見えます。
それは遠い親戚。
遠い遠い親戚も。
それは最早他人ということかも知れません。
自分の葉っぱの隣にある、別の枝に茂る沢山の葉は友達や知人。
近所の人。
そんな枝葉が沢山あって、
元を辿る毎に太くなっていく枝々は村であり、街であり、県であり......
幹につく一番太い枝とその全体は......「国」かもしれません。
その大きな太い「幹」からは他にも沢山の太い枝々が......
国々が伸びて広がっています。
そうすると、全ての枝葉が繋がっているソノ大きな大きな太い幹は
「人類」という名の幹かもしれません。
全ての人や命は繋がっているということかもしれません。
その幹は地球という大きな星......地面に繋がっていて。
その地球の地面の下深くには、
表からは決して見えない根が大きく広く張り巡らされています。
それは多くの場合、
地上に出ている姿と同じ様な大きさと広がりとがあります。
見える世界と見えない世界。
陰と陽の世界。
何も言わない木々というのは、
それすら暗黙に体現しているように僕には見えて来るのです。
そんなマザートゥリーの先端にある一枚の葉っぱ......
僕は......
いずれ枯れて、散って......
地面にひらりと落ちて、
地中に、地球に、溶けて......
そのマザートゥリーを育てていく養分となるのでしょう。
こんな話が、多分、
多くの寺社で特別な木が神とされる「御神木」の所以だと思います。
木の「在り方」というのは、
生命そのものの在り方や形態、進化の模倣図的で。
それはとても神的な在り方の様に思えます。
その枝葉の流れは
ダーウィンの生命進化論の絵図にも似ているところがあります。
そして、それが、
僕が大きな木々に自らの祖先と繋がるような雰囲気を感じてしまう......
という理由でもあります。
お盆の時期に漂う空気というのは、
いつも僕にそんなことを思わせるのです。
写真は長野県、戸隠神社「奥社」に向かう参道の巨大な杉並木。
奥には有名な山門が見えます。
コレだけの巨木です。
地中から吸い上げている水の量は途轍も無い量でしょう。
それは......言い換えれば長々と続く天にそびえる「圧倒的」な水の壁。
巨木の繁る場所や道の心地よさの正体や原因というのは
ココにあるように思います。
巨大な水のカーテンをくぐって歩く道。
木は水。
人も水。
水は......
またいつかの機会に。(^^)
ただソコにジッと立っているのに、
何かとても存在感があって、雰囲気がある。
「モノによっては」気になる。
大木になったりすると、
いつも何か「気」みたいなものを放っていて。
何か言いたげだけど、何も言わない。
あたりまえか。。。(‘・_・`)
木から気って......
でも「気」の語源としては少し絡んでいると思われます。
木=気......
お盆です。
実家に帰ったり、お墓参りをしたり、旅行にいったり。
きっと色々な時間を過ごしている方々がいるのでしょう。
お盆は精霊となったご先祖様を家にお迎えする習慣だと思いますが、
ご先祖様が好きだったものを捧げたり、食べたり......
そういうことも、
あちら世界の方々は凄く喜んでくれるように思います。
晴明水で仏壇などのお掃除をするのも喜ばれるかもしれません。
実は、このご先祖様という存在と「木」という存在が、
僕の中ではいつも強く結びついて感じられているのです。
よく「御神木」ということで、
寺社などで大きな木や特別な木が大切に祀られている所が多くあります。
僕には、それらは、その木のある寺社に縁のある方々や、
先祖や過人の方々の「気」のようなものを
強く宿している存在でもある様に感じられたりする事があるのです。
別段「不思議ちゃん」な話しをしているわけではないのですが......
例えば、こういう風に考えます......
何でも良いので自分がイメージ出来る「大きな」木を想像してみます。
御神木の様なものでなくても、
印象に残る好きな木でも、
近所のモノでも、何でも。
その大きな木の、
トアル枝の先端でヒラヒラと風にソヨいでいる一枚の緑の葉っぱが自分。
その自分がついている枝には他にも沢山の葉っぱがついています。
ソレは家族。
その自分や家族がついている枝の根元の方にも沢山の葉っぱがついています。
ソレがご先祖様。
そうなるとその枝葉全体は自分の家系を表していることになります。
その枝もよく見ると、
もう少し太い枝から枝分かれしていることに気付きます。
自分の枝とは違う方に枝分かれした枝葉は、
もしかしたら親戚の家系かも知れません。
その先にはさらに太い枝も......
また違う方に分かれた枝葉達も沢山見えます。
それは遠い親戚。
遠い遠い親戚も。
それは最早他人ということかも知れません。
自分の葉っぱの隣にある、別の枝に茂る沢山の葉は友達や知人。
近所の人。
そんな枝葉が沢山あって、
元を辿る毎に太くなっていく枝々は村であり、街であり、県であり......
幹につく一番太い枝とその全体は......「国」かもしれません。
その大きな太い「幹」からは他にも沢山の太い枝々が......
国々が伸びて広がっています。
そうすると、全ての枝葉が繋がっているソノ大きな大きな太い幹は
「人類」という名の幹かもしれません。
全ての人や命は繋がっているということかもしれません。
その幹は地球という大きな星......地面に繋がっていて。
その地球の地面の下深くには、
表からは決して見えない根が大きく広く張り巡らされています。
それは多くの場合、
地上に出ている姿と同じ様な大きさと広がりとがあります。
見える世界と見えない世界。
陰と陽の世界。
何も言わない木々というのは、
それすら暗黙に体現しているように僕には見えて来るのです。
そんなマザートゥリーの先端にある一枚の葉っぱ......
僕は......
いずれ枯れて、散って......
地面にひらりと落ちて、
地中に、地球に、溶けて......
そのマザートゥリーを育てていく養分となるのでしょう。
こんな話が、多分、
多くの寺社で特別な木が神とされる「御神木」の所以だと思います。
木の「在り方」というのは、
生命そのものの在り方や形態、進化の模倣図的で。
それはとても神的な在り方の様に思えます。
その枝葉の流れは
ダーウィンの生命進化論の絵図にも似ているところがあります。
そして、それが、
僕が大きな木々に自らの祖先と繋がるような雰囲気を感じてしまう......
という理由でもあります。
お盆の時期に漂う空気というのは、
いつも僕にそんなことを思わせるのです。
写真は長野県、戸隠神社「奥社」に向かう参道の巨大な杉並木。
奥には有名な山門が見えます。
コレだけの巨木です。
地中から吸い上げている水の量は途轍も無い量でしょう。
それは......言い換えれば長々と続く天にそびえる「圧倒的」な水の壁。
巨木の繁る場所や道の心地よさの正体や原因というのは
ココにあるように思います。
巨大な水のカーテンをくぐって歩く道。
木は水。
人も水。
水は......
またいつかの機会に。(^^)
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