藤井寺市出身の力士さんの手形が、道明寺天満宮を訪ねた時、カメラに収めてありました。
ブロンズ製の立派な手形です。その大きさに驚きました。
放駒部屋 花ノ国 明宏と傍の御影石に彫ってありました。
カメラマングローブ(手袋)をはめたまま、手形の手首のところに私の手首を当ててみました。
これこの通り親指は手形の付け根にも届きません。
やっぱりお相撲さんの手は大きいことを実感しました。
説明板のこの部分しか撮ってこなかったので、どんなお相撲さんだったのか、調べてみました。
元横綱輪島の花籠部屋で十両時代、師匠の不祥事で放駒部屋へ移籍した事件は、記憶のどこかに残っています。
ウィキペディアで調べたことを下に1部コピーしました。
藤井寺が生み出した花の国明宏さんの力士時代の活躍は、素晴らしいものだったのでしょう。
今行われている大阪場所を、テレビで見ながら天満宮に手形のブロンズ像は、
元親方の不祥事とは別に藤井寺市をあげて応援していたのだろうと想像しています。
相撲好きの父親から幼少期より鍛えられた。1975年(昭和50年3月場所初土俵。輪島が横綱時代後半に差し掛かったあたりから十両昇進まで付き人を務めていた。重い腰を生かした典型的な四つ相撲で、右四つからの正攻法の攻めで番付を上げていった。1983年(昭和58年)5月場所新十両。十両時代に当時の師匠(元横綱輪島)の不祥事(いわゆる花籠事件)で放駒部屋へ移籍したが、以降はめきめきと力を付け、ご当所の1988年(昭和63年)3月場所で新入幕を果たした。三役には惜しくも届かなかったが幕内中-上位で健闘。同年9月場所では13日目を終わって2敗と優勝争いに絡む活躍、最終的に11勝4敗の好成績で敢闘賞を受賞、1989年(平成元年)9月場所では横綱北勝海を破る金星をあげた。また不調時ではあったが小錦と相性が良く、1988年と1989年に限れば3勝4敗とほぼ互角の星を残している。しかし小錦が復調して以降は勝てなかった。
丁度大阪場所の今、観梅に行った時の写真の整理をしていた時手形の写真が出てきました。
それが興味を広げて今日の記事になりました。
今、サンフランシスコにつきました、ブログを書こうと思ったらgooのパスワードが跳ねられて書けません、ここのイミグレーションは、長蛇の列で一時間待たされ待たされました、日本見たいにいい国はありません。
大横綱の記録に目が行きがちですが、ひとりで成り立つ記録ではありませんね。
花ノ国関のような目立たなくとも、存在感のある力士が好きです。現在の安美錦。長崎の平和像にも似た端正な容貌、相撲の巧さ。なんともいえません。
それにしても手形、大きな手ですね。
anikobeさんに関取の手の温もりが伝わってきたのでは?
春も間近です。
大阪で盛り上がっている大相撲大阪場所、テレビがラジオかどちらかで聞いています。
面白いです。
gooブログが書けないのですね。
なぜなのでしょう。
いい旅をなさいますように。
若い力士さんで、とても頑張っている人を見ますと、毎日の取り組みが楽しみになります。
大きな手ですよね。
何回も天満宮に行っていましたのに、今まで気が付かなかったのです。
オヤジな私さんが仰るように、花の国関の手の温もりが伝わってくるようです
足音を立てながら春がやってきそうですね。
ありがとうございました。