☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
ほどよい調和、バランスというと、若い人たちはぬるま湯に浸っている感じを持つかもしれない。
が、戦後、個性を極端に尊ぶあまり、その範疇を越えて、人より目立つことが個性的であるかのような
ファッションとか考え方がはやった。が、そろそろ、その弊害を皆んなが自覚してもいい時期ではないかと思う。
『あまのじゃく人間へ』遠藤周作(1987)青春出版社より
正直なところ、社会で生活していて個性が求められることはほとんどないというのが、40代の大人としての私の実感です。
私は音楽の分野で仕事をしていますが、この仕事に必要なのは個性ではなく、人より真面目に誠実に地道に努力をすることと、諦めずに続けること、またはこの仕事のために他の魅力的な様々なことを我慢できるかどうかといった能力だと思います。
音楽の現場においても、「個性的」という言葉はあまり良い意味では使われていないような気がします。
アーティスト気質といえば聞こえは良いかもしれませんが、要はワガママであったり、時間や決まり事にルーズであったり、無礼であったり、だらしがなく面倒で厄介であったりと、その現場の進行の妨げとなるようなトラブルメーカーに対して、悪く言いたくない時に「個性的」という言葉でお茶を濁すような印象を受けます。
いずれにしろ、10代20代の頃は、やたらと「個性的」でなければいけないと言われ続けてきたように思います。
大勢の中に埋もれないように、他人と同じことをしてはいけない、誰も思いつかないようなことをしなければいけない、平凡でいることは許されない、特別な何かにならなければいけないという考えが、まるで強迫観念のようにつきまとっているような感覚でした。
しかし、実際に社会で生活してみると、必要とされるのは周囲とうまく溶け込める能力であることに気づくのです。
アーティストや芸能人ならば、人々を楽しませるよう人目をひくような奇抜な「個性」が必要かもしれませんが、それはごく一部の人たちに限られたことであって、圧倒的多数の人たちには当てはまらないのです。
一般人に「個性」は必要ありません。求められるのは「ほどよい調和」です。
学校でも職場でも、貴ばれるのは円滑な人間関係なのです。
それを、集団の中で目立たなければいけない、あるいは目立ちたいという衝動を抱えている一部の人たちが「個性」が大切だと声高に主張するせいで、「ほどよい調和」が崩されてしまうのです。
なにも、個性的であることが悪いと言うつもりはありません。しかし、一方では「ほどよい調和」が必要な場面も、社会で生活していくうちには多々あるわけで、「個性」を主張することによって、それまで保たれていた労働環境が壊れることで社会が被る不利益について考える必要はないのかと問いかけてみたくなるのです。
この社会には沢山の人が存在していて、「個性」を主張する人がいるのと同様に「ほどよい調和」を好む人もいます。
自分たちが「個性的」でありたいように、全く目立たずとも自分の役割をしっかりと果たすことに幸福を感じている人もいるのです。
そういう人たちに「無個性」のレッテルを貼り、社会での居心地を悪くさせるのはどうかと思うのです。
そんなに人には「個性」が必要なのでしょうか?
もちろん、自分の「個性」を大切にすることを私は否定しません。しかし、他人にも「個性」がなければダメだという考えは間違いだと思います。
望んでいない人に無理矢理押し付けるのは、ただの迷惑行為です。
人間には「個性」が絶対的に必要だと信じている親が、子供に世間では奇抜だと思われる名前をつけることは、その迷惑行為の代表例です。
大切なのは、自分の気持ちや欲求ではなく、子供の人生だということを思い出すべきです。
それができないというのならば、その人は「個性的」なのではなく、単なる自分本位で無責任な人間だということなのでしょう。
ヒトコトリのコトノハ vol.80
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
ほどよい調和、バランスというと、若い人たちはぬるま湯に浸っている感じを持つかもしれない。
が、戦後、個性を極端に尊ぶあまり、その範疇を越えて、人より目立つことが個性的であるかのような
ファッションとか考え方がはやった。が、そろそろ、その弊害を皆んなが自覚してもいい時期ではないかと思う。
『あまのじゃく人間へ』遠藤周作(1987)青春出版社より
正直なところ、社会で生活していて個性が求められることはほとんどないというのが、40代の大人としての私の実感です。
私は音楽の分野で仕事をしていますが、この仕事に必要なのは個性ではなく、人より真面目に誠実に地道に努力をすることと、諦めずに続けること、またはこの仕事のために他の魅力的な様々なことを我慢できるかどうかといった能力だと思います。
音楽の現場においても、「個性的」という言葉はあまり良い意味では使われていないような気がします。
アーティスト気質といえば聞こえは良いかもしれませんが、要はワガママであったり、時間や決まり事にルーズであったり、無礼であったり、だらしがなく面倒で厄介であったりと、その現場の進行の妨げとなるようなトラブルメーカーに対して、悪く言いたくない時に「個性的」という言葉でお茶を濁すような印象を受けます。
いずれにしろ、10代20代の頃は、やたらと「個性的」でなければいけないと言われ続けてきたように思います。
大勢の中に埋もれないように、他人と同じことをしてはいけない、誰も思いつかないようなことをしなければいけない、平凡でいることは許されない、特別な何かにならなければいけないという考えが、まるで強迫観念のようにつきまとっているような感覚でした。
しかし、実際に社会で生活してみると、必要とされるのは周囲とうまく溶け込める能力であることに気づくのです。
アーティストや芸能人ならば、人々を楽しませるよう人目をひくような奇抜な「個性」が必要かもしれませんが、それはごく一部の人たちに限られたことであって、圧倒的多数の人たちには当てはまらないのです。
一般人に「個性」は必要ありません。求められるのは「ほどよい調和」です。
学校でも職場でも、貴ばれるのは円滑な人間関係なのです。
それを、集団の中で目立たなければいけない、あるいは目立ちたいという衝動を抱えている一部の人たちが「個性」が大切だと声高に主張するせいで、「ほどよい調和」が崩されてしまうのです。
なにも、個性的であることが悪いと言うつもりはありません。しかし、一方では「ほどよい調和」が必要な場面も、社会で生活していくうちには多々あるわけで、「個性」を主張することによって、それまで保たれていた労働環境が壊れることで社会が被る不利益について考える必要はないのかと問いかけてみたくなるのです。
この社会には沢山の人が存在していて、「個性」を主張する人がいるのと同様に「ほどよい調和」を好む人もいます。
自分たちが「個性的」でありたいように、全く目立たずとも自分の役割をしっかりと果たすことに幸福を感じている人もいるのです。
そういう人たちに「無個性」のレッテルを貼り、社会での居心地を悪くさせるのはどうかと思うのです。
そんなに人には「個性」が必要なのでしょうか?
もちろん、自分の「個性」を大切にすることを私は否定しません。しかし、他人にも「個性」がなければダメだという考えは間違いだと思います。
望んでいない人に無理矢理押し付けるのは、ただの迷惑行為です。
人間には「個性」が絶対的に必要だと信じている親が、子供に世間では奇抜だと思われる名前をつけることは、その迷惑行為の代表例です。
大切なのは、自分の気持ちや欲求ではなく、子供の人生だということを思い出すべきです。
それができないというのならば、その人は「個性的」なのではなく、単なる自分本位で無責任な人間だということなのでしょう。
ヒトコトリのコトノハ vol.80
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