☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
日本の教育は創造性を阻害する教育だといわれ、創造力のある子供を育てるように教育を改革しよう
という動きがある。しかし、それはまったくの誤りである。創造性と教育とは本来対極にあるもの
だからだ。教育は、人を規制する側面をもつ。教育とは、守ってほしい約束ごと、知ってほしいことがらを
当人の意思とは無関係に記憶させる作業である。…(中略)創造力とは自分でものを考え、自分で
何かを作り出す能力である。創造力を教育によって教えることはできない。教えるということは、
すでに誰かが考えたり作り出したものを理解させることでしかないからである。
『ハード・アカデミズムの時代』高山博(1998)講談社
教育によって創造力を教えることはできないという言葉に、私はある程度の共感を覚えます。
私が音楽教室でしていることは、ざっくりいうと楽器の弾き方を教えることです。
それはすでに「誰かが考えたり作り出したもの」であり、私もまたそれを今まで師事した先生方から教えていただいたことなのです。
特に、こうした身体を使う技術というものは、基本に忠実であることが重要視されます。
そこに斬新なアイデアや自分なりのやり方は必要ありません。
かえって、それらのものは「自己流」として捉えられ、正統性を認めてもらえないばかりか、技術が身につかないこともあります。
私は6歳の頃からバイオリン教室に通い、小学校6年生の時に地元のアマチュアオーケストラに入団し、大人に混じってバイオリンを弾いていました。
高校三年生でバイオリンを専門に勉強するのがつらくなり、大学では専攻を声楽に変えてしまいましたが、オーケストラでの演奏は続けていましたし、学生のうちから音楽教室でバイオリンを教えることはしていました。
バイオリンをずっと専攻していた人に比べると、技量が不足していますが、幸いにも高校の時に師事していた先生が基礎練習を重視する方だったので、「これさえやれば、一生弾けるぞ」という類の課題を与えて下さり、そのおかげで、今でも人に教えられるくらいの技術を維持することができています。
演奏における創造性とは、ずばり「表現すること」だと私は理解しています。(自分で曲を作る、また即興演奏をするといった創造性とは若干異なるものです)
毎日のように新曲がリリースされるポップスとは違い、クラシック音楽はもうすでに何百年も前に作られた作品を後世の人々が演奏するスタイルをとります。(いわゆるカバー曲みたいな感じです)
それはすでに「誰かが考えたり作り出したもの」なので、クラシック音楽はジャンルとして、どうしても教育的要素が色濃くなるのです。
楽器の音を出すということと、曲を演奏することは同じことのようでいて別のことかもしれません。
音は単なる素材にすぎず、曲の中で使うにはその曲の「表現」に合うように加工しなければいけません。
言うなれば、生の人参を丸かじりするのではなく、煮たり、炒めたりして、シチューやきんぴらとして味わうということです。
料理によって、食材の切り方や形、大きさを変えたりするように、音楽においても音は様々に変化します。
どんな曲でどんな音色にするかは、ひとえに演奏者のセンスにかかっています。
ですから、良い演奏者になるためには、ひたすらレッスンに通うということも必要ですが、それとは別に歴史上の傑作と呼ばれる作品に触れたり(例えば美術館に行くなど)、名手と呼ばれる人たちの演奏を鑑賞したり、その他の様々な知的好奇心を刺激するようなアクティビティに参加するなどして、自身の美的感覚を育むことが重要だと私は思います。
教育の現場だけでは、教えることが難しいものを確かにあります。
しかし、それは教育の欠点なのではなく、そうした現場で得た経験をもとに、社会の中で何を学ぶかという私たち一人一人の知恵が試されているのだと私は感じます・
私たち人間のうち、誰一人として万能で完璧な人間などいないのと同様、教育がすべてをカバーしてくれるなどという考えは持たない方が良いでしょう。
教育の現場で私たちが培うべきものは、未知のものについて知ろうとする好奇心、そして先人たちの知を知ることで新しい気づきに出会うことであり、自分たちに不都合なことをなんでも解決してくれる魔法の呪文などではないのです。
現代の科学や文明を支えている知の源はすでに古代ギリシャ時代に創造(あるいは発見)されました。
それらの知をもとに、人類は様々なアレンジレシピを考えつき、現在のような便利で快適な社会生活を送れるようになったのです。
応用するためには基礎が必要です。
学校教育に求められることは、新たな知を創造するために必要な基本的な知識や技術を教えることです。
それはとても単純で、恐ろしくつまらないことかもしれません。そんなお勉強より、モンスターと戦うなどの、日々のつまらなさを埋めてくれる刺激の強いゲームの世界に没頭したくなるでしょう。
しかし、基礎のない応用など、ただの無秩序にすぎません。結局、うまくいかないのです。
基礎練習を嫌って、自分の好きなように弾く生徒さんのうち、誰一人として上達した試しがないのを私は今まで何例も目にしてきました。
彼らには残念ながら、いくら言葉を尽くして基礎練習の大切さを説いても、なかなか受け入れられることはありません。
音楽教室は生涯学習を支援する目的があり、必ずしも専門性を追求しなければいけないということではないので、最終的にはその人が楽しんでいるのなら、それでも構わないのですが、それはいわば、料理の基本を守らずに作られたアレンジレシピと称して提供される、地獄のような味の料理のようなものなのです。
今現在、こんなつまらない、役に立たなそうな勉強をして何の意味があるの?と思っている学生さんたち、それは将来の自分の人生を美味しく料理するために重要なことです。
食当たりなど起こさないように、しっかり基礎を身に着けましょうね!
ヒトコトリのコトノハ vol.87
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
日本の教育は創造性を阻害する教育だといわれ、創造力のある子供を育てるように教育を改革しよう
という動きがある。しかし、それはまったくの誤りである。創造性と教育とは本来対極にあるもの
だからだ。教育は、人を規制する側面をもつ。教育とは、守ってほしい約束ごと、知ってほしいことがらを
当人の意思とは無関係に記憶させる作業である。…(中略)創造力とは自分でものを考え、自分で
何かを作り出す能力である。創造力を教育によって教えることはできない。教えるということは、
すでに誰かが考えたり作り出したものを理解させることでしかないからである。
『ハード・アカデミズムの時代』高山博(1998)講談社
教育によって創造力を教えることはできないという言葉に、私はある程度の共感を覚えます。
私が音楽教室でしていることは、ざっくりいうと楽器の弾き方を教えることです。
それはすでに「誰かが考えたり作り出したもの」であり、私もまたそれを今まで師事した先生方から教えていただいたことなのです。
特に、こうした身体を使う技術というものは、基本に忠実であることが重要視されます。
そこに斬新なアイデアや自分なりのやり方は必要ありません。
かえって、それらのものは「自己流」として捉えられ、正統性を認めてもらえないばかりか、技術が身につかないこともあります。
私は6歳の頃からバイオリン教室に通い、小学校6年生の時に地元のアマチュアオーケストラに入団し、大人に混じってバイオリンを弾いていました。
高校三年生でバイオリンを専門に勉強するのがつらくなり、大学では専攻を声楽に変えてしまいましたが、オーケストラでの演奏は続けていましたし、学生のうちから音楽教室でバイオリンを教えることはしていました。
バイオリンをずっと専攻していた人に比べると、技量が不足していますが、幸いにも高校の時に師事していた先生が基礎練習を重視する方だったので、「これさえやれば、一生弾けるぞ」という類の課題を与えて下さり、そのおかげで、今でも人に教えられるくらいの技術を維持することができています。
演奏における創造性とは、ずばり「表現すること」だと私は理解しています。(自分で曲を作る、また即興演奏をするといった創造性とは若干異なるものです)
毎日のように新曲がリリースされるポップスとは違い、クラシック音楽はもうすでに何百年も前に作られた作品を後世の人々が演奏するスタイルをとります。(いわゆるカバー曲みたいな感じです)
それはすでに「誰かが考えたり作り出したもの」なので、クラシック音楽はジャンルとして、どうしても教育的要素が色濃くなるのです。
楽器の音を出すということと、曲を演奏することは同じことのようでいて別のことかもしれません。
音は単なる素材にすぎず、曲の中で使うにはその曲の「表現」に合うように加工しなければいけません。
言うなれば、生の人参を丸かじりするのではなく、煮たり、炒めたりして、シチューやきんぴらとして味わうということです。
料理によって、食材の切り方や形、大きさを変えたりするように、音楽においても音は様々に変化します。
どんな曲でどんな音色にするかは、ひとえに演奏者のセンスにかかっています。
ですから、良い演奏者になるためには、ひたすらレッスンに通うということも必要ですが、それとは別に歴史上の傑作と呼ばれる作品に触れたり(例えば美術館に行くなど)、名手と呼ばれる人たちの演奏を鑑賞したり、その他の様々な知的好奇心を刺激するようなアクティビティに参加するなどして、自身の美的感覚を育むことが重要だと私は思います。
教育の現場だけでは、教えることが難しいものを確かにあります。
しかし、それは教育の欠点なのではなく、そうした現場で得た経験をもとに、社会の中で何を学ぶかという私たち一人一人の知恵が試されているのだと私は感じます・
私たち人間のうち、誰一人として万能で完璧な人間などいないのと同様、教育がすべてをカバーしてくれるなどという考えは持たない方が良いでしょう。
教育の現場で私たちが培うべきものは、未知のものについて知ろうとする好奇心、そして先人たちの知を知ることで新しい気づきに出会うことであり、自分たちに不都合なことをなんでも解決してくれる魔法の呪文などではないのです。
現代の科学や文明を支えている知の源はすでに古代ギリシャ時代に創造(あるいは発見)されました。
それらの知をもとに、人類は様々なアレンジレシピを考えつき、現在のような便利で快適な社会生活を送れるようになったのです。
応用するためには基礎が必要です。
学校教育に求められることは、新たな知を創造するために必要な基本的な知識や技術を教えることです。
それはとても単純で、恐ろしくつまらないことかもしれません。そんなお勉強より、モンスターと戦うなどの、日々のつまらなさを埋めてくれる刺激の強いゲームの世界に没頭したくなるでしょう。
しかし、基礎のない応用など、ただの無秩序にすぎません。結局、うまくいかないのです。
基礎練習を嫌って、自分の好きなように弾く生徒さんのうち、誰一人として上達した試しがないのを私は今まで何例も目にしてきました。
彼らには残念ながら、いくら言葉を尽くして基礎練習の大切さを説いても、なかなか受け入れられることはありません。
音楽教室は生涯学習を支援する目的があり、必ずしも専門性を追求しなければいけないということではないので、最終的にはその人が楽しんでいるのなら、それでも構わないのですが、それはいわば、料理の基本を守らずに作られたアレンジレシピと称して提供される、地獄のような味の料理のようなものなのです。
今現在、こんなつまらない、役に立たなそうな勉強をして何の意味があるの?と思っている学生さんたち、それは将来の自分の人生を美味しく料理するために重要なことです。
食当たりなど起こさないように、しっかり基礎を身に着けましょうね!
ヒトコトリのコトノハ vol.87
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます