☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
育てそこねた苗を見て、生まれつきだと考え、そこねられた苗の多いのに気づかず栽培しているのに似たのが、
今日までの人類の社会です。この愚かさからは、いつか人類はぬけ出さなければいけない。みんなが早く気づけば
気づくほどいいし、早く改めれば改めるほど、人類はしあわせに近づくのです。
『愛に生きる 才能は生まれつきではない』鈴木鎮一著(1966)講談社より
「才能教育」や「エリート教育」という言葉が好きではありません。
自分自身、優れた才能の持ち主ではないし、エリートでもないという自負(あるいは劣等感)があります。
学生時代に、才能のある人やエリートと呼ばれる人たちと自分を比較されたり、才能やエリートを熱狂的に支持する人たちから失望されたり、相手にされなかった経験もあります。
私は凡人です。凡人であることにがっかりされ、馬鹿にされてきた人間です。
才能がなければ、エリートでなければ価値がないという考えの大人たちに囲まれて生きてきました。
とても不幸でした。
私は今、自分が凡人であることに心からの安堵を覚えます。
才能のある人やエリートの人たちが、常に結果を求められる姿を見てきたからです。
大人たちは初め、私にどんな優れた才能があるのか、どれだけの素晴らしいことができるのか見定めようという意気込みで私に接してきました。
そして、私にそんな素晴らしいものが何一つないと分かると、私への興味が薄れ、関わってくることはなくなるのでした。
「自分より若い人間を見定めてやろう」という大人たちの態度は、私には恐怖に近いものでした。
こいつはいつどんな失敗をするのか、どれだけダメな奴なのか見てやろう、という悪意に満ちた好奇心がありありと伝わってきました。
私は、そんな常に監視されているような状態には耐えられませんでした。
しかし、こういう状況はエリートと呼ばれる人たちにとっては普通のことなのかもしれません。
こういうことをも退けることができる人たち。それがエリートなのだろうと、今は思います。
人はなぜ、才能を求め、エリートを貴ぶのでしょうか。
この世には、エリートと呼ばれる人はどのくらいいるのでしょうか。私のような、なんでもない凡人は少数派なのでしょうか。
いったい、どんな条件が整えば人はエリートだと認定されるのでしょうか。
そして、誰がその認定をするのでしょうか。私には理解できない永遠の謎なのです。
私は凡人ですが、自分なりの努力を重ね、どうにかこうにか社会の中で生きてきました。
私がエリートではないことに、勝手に失望して離れて行った人たちとは、その後、何の交流もありません。
そして、今現在、私は音楽教室の講師をしていますが、自分が「才能教育」や「エリート教育」をしているとは思いません、今後もするつもりもありません。
私のような人間が誰かを評価できるとは思いません。評価したいとも思いません。
そういった事柄から自由でいられることに幸せを感じます。
何と比べるわけでもありませんが、平凡な幸せが一番だと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.30
=====
▼本の林の管理人ハヤシさんがお送りしています。
☆X(Twitter) https://twitter.com/honnohayashi
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●本日のコトノハ●
育てそこねた苗を見て、生まれつきだと考え、そこねられた苗の多いのに気づかず栽培しているのに似たのが、
今日までの人類の社会です。この愚かさからは、いつか人類はぬけ出さなければいけない。みんなが早く気づけば
気づくほどいいし、早く改めれば改めるほど、人類はしあわせに近づくのです。
『愛に生きる 才能は生まれつきではない』鈴木鎮一著(1966)講談社より
「才能教育」や「エリート教育」という言葉が好きではありません。
自分自身、優れた才能の持ち主ではないし、エリートでもないという自負(あるいは劣等感)があります。
学生時代に、才能のある人やエリートと呼ばれる人たちと自分を比較されたり、才能やエリートを熱狂的に支持する人たちから失望されたり、相手にされなかった経験もあります。
私は凡人です。凡人であることにがっかりされ、馬鹿にされてきた人間です。
才能がなければ、エリートでなければ価値がないという考えの大人たちに囲まれて生きてきました。
とても不幸でした。
私は今、自分が凡人であることに心からの安堵を覚えます。
才能のある人やエリートの人たちが、常に結果を求められる姿を見てきたからです。
大人たちは初め、私にどんな優れた才能があるのか、どれだけの素晴らしいことができるのか見定めようという意気込みで私に接してきました。
そして、私にそんな素晴らしいものが何一つないと分かると、私への興味が薄れ、関わってくることはなくなるのでした。
「自分より若い人間を見定めてやろう」という大人たちの態度は、私には恐怖に近いものでした。
こいつはいつどんな失敗をするのか、どれだけダメな奴なのか見てやろう、という悪意に満ちた好奇心がありありと伝わってきました。
私は、そんな常に監視されているような状態には耐えられませんでした。
しかし、こういう状況はエリートと呼ばれる人たちにとっては普通のことなのかもしれません。
こういうことをも退けることができる人たち。それがエリートなのだろうと、今は思います。
人はなぜ、才能を求め、エリートを貴ぶのでしょうか。
この世には、エリートと呼ばれる人はどのくらいいるのでしょうか。私のような、なんでもない凡人は少数派なのでしょうか。
いったい、どんな条件が整えば人はエリートだと認定されるのでしょうか。
そして、誰がその認定をするのでしょうか。私には理解できない永遠の謎なのです。
私は凡人ですが、自分なりの努力を重ね、どうにかこうにか社会の中で生きてきました。
私がエリートではないことに、勝手に失望して離れて行った人たちとは、その後、何の交流もありません。
そして、今現在、私は音楽教室の講師をしていますが、自分が「才能教育」や「エリート教育」をしているとは思いません、今後もするつもりもありません。
私のような人間が誰かを評価できるとは思いません。評価したいとも思いません。
そういった事柄から自由でいられることに幸せを感じます。
何と比べるわけでもありませんが、平凡な幸せが一番だと思う今日この頃です。
ヒトコトリのコトノハ vol.30
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