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沈黙は禁?

2018年08月12日 | ひとりごと
 植物を上手に育てるには、毎日話しかけてあげることだと、何かの本で読んだことがあります。

 話しかける内容は褒め言葉でも罵詈雑言でも良いらしく、何も声をかけないというのが、植物の成長に一番良くないそうです。

 言わば、その植物の存在を無視する・認識しないということです。

 とは言っても、野山に生えている植物は人間が声をかけなくても育つわけですから、必ず声をかけなくてはいけないわけではありません。

 最近の研究では、植物同士が特殊な物質を分泌してお互いを認識し合っているのだとか。
 植物も人間と同じように、おしゃべりをしているのかもしれません。

 植物の話はさておき、私個人としては、成長と認識の間には少なからず関係があると思います。

 当たり前のことですが、学習の過程において、認識することなしに学習することはできません。
 何かを「理解する」ということは、脳が知識を得た、つまり情報として認識したということです。
 この過程を経ずに、何かを習得することはできません。

 たまに、他の発達には問題がないのに、どうしても字の読み書きができない、人の顔を覚えられないという人がいますが、これらの事象は脳が文字や人の顔を、目から捉えた情報として認識できないことから起こる認識障害の一種です。

 対象を認識できないので、記憶として脳に保存されず、結果として覚えることができないのです。

 手紙を書いたり、本を読んだり、友人と会ったりなど、普段何気なくしていることですが、それは脳が正常に機能しているおかげなのです。

 そんなの当然のことじゃないかと思われるかもしれません。
 ですが、この「当たり前のことを認識すること」は、教育の過程において重要な意味を持っていると私は思います。

 日本は暗黙の了解というルールが至る所に浸透している社会だと思います。
 みんなが共通の理解をしていることは、わざわざ口にはしません。

「そんなこと、言わなくても分かるでしょう?」という態度です。

 確かに、何でもかんでも言葉にするのは合理的ではないのかもしれません。
 無駄な労力だと考える人もいるでしょう。

 しかし、この「暗黙の了解」が行き違いを生む場合があります。
 「なんで言ってくれなかったの?」
  ↓ ↑
 「言わなくても分かると思った。」という感じに。

 家族や友人とのやり取りの中で、そんな経験をした人は少なくないかもしれません。
 「わざわざ言わなくてもいい。」と思うのか、「言わないと分からない。」と感じるかは人によって違います。

 不特定多数の人に提供される商品や、沢山の人が集う公共施設などには、そういった行き違いが起こらないように、懇切丁寧な注意事項が掲示されている場合もありますね。

 アメリカなどは、そうした注意事項のない商品から、消費者が何らかの被害(例えば、ケガや体調不良など)を受けた場合は、企業に高額の補償を求める訴訟が起きることも珍しくありません。

 そして、日本でならば、「そんなことをすればケガをするのは当然じゃないか。消費者の自業自得だ。」と思えることでも、事前に注意喚起をしなかったという理由で、企業側が敗訴してしまう場合も無きにしも非ずなのです。

 さて、学習の過程において、先生は生徒の悪い点(できないこと)についてはよく指摘します。
 「これはダメ。」「それは違う。」などです。

 しかし、良い点(できていること)に対しての反応はあまりしません。(個人差があるとは思いますが。)

 「できて当然だから」と思い、何も言わないのかもしれませんが、そうすると、生徒の中には、自分ができていることの認識が薄れてしまい、次回時にはできなくなっていることがあるのです。
 そんな時、先生は「この前できたのに、なんでできないの?」と生徒を責めてしまうかもしれません。

 しかし、前回、自分がどういう指摘をしたかをまず考えるべきです。
 例えば、「ここはできているから、忘れないようにしようね。」と確認したかどうか。

 横文字が好きな方ならば、「フィードバック」という言葉が思い浮かぶと思いますが、そんなに難しく考えずに、単純に褒めてあげるだけでいいのです。
 「できるようになったね。すごい!やったね!」と言ってあげるだけでも、生徒は自分の努力の手応えを感じることができます。

 もちろん、教え方にただ一つの方法なんてありません。やたらと生徒を褒めるのは良くないと考える先生もいらっしゃると思います。
 フィードバックの方法も先生によって千差万別です。

 その中で、私があえて言いたいのは、ダメな部分を指摘するのと同じくらい、良い部分を認識させてあげることが大切だということです。
 つまり、YES!と言ってあげることです。

 自分自身のことは自分が一番分かっているつもりで、意外と分かっていないことが多いのです。
 自分の良い所に気がつき、できるようになったことを認識することで、人は自信が付き、実力が育っていきます。

 この点について考えると、自分に自信を持つようにと幼い頃から子供を教育するアメリカは、世界をリードする人材育成に長けている国だと言えます。
 良いものは良い。YES!と評価される環境が優れた人材を育てるのかもしれません。

 謙遜を美徳とする日本では、誇らしげな態度をとることはともすると、自信過剰な人だと思われてしまいます。
 特に集団の中では、「出る杭は打たれる」傾向にあるようです。

 会社や組織内で、いくら優れたアイデアを出しても、「新人だから、」や「女性だから、」という理由で却下されてしまうという話は珍しくありません。
 しかし、そんなふうに優秀な才能を認めずにいると、経済的にも文化的にも、日本は衰退していき、やがては自滅するのではないかと、私は心配になります。

 今の日本は、一人一人の才能をダメにしてしまう国なのかもしれません。
 (優秀な人材が海外に流出してしまうのは、このあたりに原因がありそうです。)

 足を引っ張り合うのではなく、「出る杭がいっぱいある」という社会で、お互いを認め合い、高め合う方が何倍も建設的だと思うのですが、なかなかそんな風潮になりそうにないなと感じる今日この頃です。

 より多くの種類の植物が共生している生態系が豊かな自然環境を形成するように、どんなささやかな能力でも認められて育って行き、日本が多様な才能で溢れる社会になるといいなと願ってやみません。


 


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