☆本記事は、Youtubeチャンネル『本の林 honnohayashi』に投稿された動画を紹介するものです。
ご興味を持たれた方は是非、動画の方もチェックしてみて下さいね!
●本日のコトノハ●
「幸福とは、愛されることではない。愛されるということは、嫌悪のまじった、虚栄心の自己満足だ。
幸福とは愛することだ。そしてもしかすると、思いこみにすぎなくとも、少しずつでいいから、
愛する対象に近づくチャンスをのがさぬことかもしれぬ」。
『愛と孤独の作家たち』小塩節(1977)主婦の友社より
愛されるよりも、愛することの方が幸せだという考えに、私は少なからず共感を覚えます。
とはいえ、今までの人生で愛されていることを実感したことはほとんどないので、(もしかしたら、愛されていることに気がつかなかった可能性もゼロではありませんが)、私は愛されるということがどういうことなのか、40代になっても分からない人間です。
誰かを好きになったことはあります。一応、一度は結婚していたので、それなりに親密な関係になった相手もいます。
幸か不幸か離婚という結末を迎えたその関係について言えば、当時の私は精神的な強さがあまりなく、判断力も未熟だったので、それが、相手にとっては操りやすい存在だったでしょうし、私と実親の関係があまり良いものではなかったことも、相手には好都合で、私のことをより利用しやすい使用人として見ていたのかもしれません。
私が一方的に相手の行動や要求を受け入れるだけの関係が長続きするはずもなく、私が体調を崩したことと、相手が思うように動けなくなった私に暴言暴力を向けてくるようになったので、ついに諦めて実家へ戻ることにしました。
実親から離れたいという思いもあって(今思えば、それしかなかったのかもしれませんが)決めた結婚だったので、結局、実家に帰らざるをえなくなった自分が惨めで、ほんとうに消えてしまいたいと思いました。
結果的に、離婚したことで自分の時間が増え、楽器の練習時間が十分に確保できたり、私が地元に戻って来ていることを知った知り合いの先生が音楽教室の仕事を紹介してくれたり、自分でも教室を運営してみたりと、現在の仕事につながるように生活することができたので、大変なこともありましたが、有意義な経験だったのかなと考えることもできると思います。(親との関係は相変わらずですが)
この結婚生活で、愛されているとしみじみ感じることはありませんでした。
ただ、敵意を持たれていると感じることもありませんでしたし、それで十分でした。
悪意の眼差しで私の一挙手一投足を監視し、ちょっとした物忘れや家事のやり方などを咎めたり、帰宅時間や休日についていちいち指摘してくる父親のような人間ではないというだけで、私にはありがたかったのです。
ありがたかったですが、それが愛情かと言われると、違うような気がします。
一緒にいても平気というだけの話でした。
漠然と、今思うことは「愛するということは、相手の人生や相手にとっての幸福を考えることができるかどうか」なのではないかということです。
そして、相手も同じように、私の人生、私にとっての幸福について考えてくれるのなら、それが「愛される」ということなのかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.56
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●本日のコトノハ●
「幸福とは、愛されることではない。愛されるということは、嫌悪のまじった、虚栄心の自己満足だ。
幸福とは愛することだ。そしてもしかすると、思いこみにすぎなくとも、少しずつでいいから、
愛する対象に近づくチャンスをのがさぬことかもしれぬ」。
『愛と孤独の作家たち』小塩節(1977)主婦の友社より
愛されるよりも、愛することの方が幸せだという考えに、私は少なからず共感を覚えます。
とはいえ、今までの人生で愛されていることを実感したことはほとんどないので、(もしかしたら、愛されていることに気がつかなかった可能性もゼロではありませんが)、私は愛されるということがどういうことなのか、40代になっても分からない人間です。
誰かを好きになったことはあります。一応、一度は結婚していたので、それなりに親密な関係になった相手もいます。
幸か不幸か離婚という結末を迎えたその関係について言えば、当時の私は精神的な強さがあまりなく、判断力も未熟だったので、それが、相手にとっては操りやすい存在だったでしょうし、私と実親の関係があまり良いものではなかったことも、相手には好都合で、私のことをより利用しやすい使用人として見ていたのかもしれません。
私が一方的に相手の行動や要求を受け入れるだけの関係が長続きするはずもなく、私が体調を崩したことと、相手が思うように動けなくなった私に暴言暴力を向けてくるようになったので、ついに諦めて実家へ戻ることにしました。
実親から離れたいという思いもあって(今思えば、それしかなかったのかもしれませんが)決めた結婚だったので、結局、実家に帰らざるをえなくなった自分が惨めで、ほんとうに消えてしまいたいと思いました。
結果的に、離婚したことで自分の時間が増え、楽器の練習時間が十分に確保できたり、私が地元に戻って来ていることを知った知り合いの先生が音楽教室の仕事を紹介してくれたり、自分でも教室を運営してみたりと、現在の仕事につながるように生活することができたので、大変なこともありましたが、有意義な経験だったのかなと考えることもできると思います。(親との関係は相変わらずですが)
この結婚生活で、愛されているとしみじみ感じることはありませんでした。
ただ、敵意を持たれていると感じることもありませんでしたし、それで十分でした。
悪意の眼差しで私の一挙手一投足を監視し、ちょっとした物忘れや家事のやり方などを咎めたり、帰宅時間や休日についていちいち指摘してくる父親のような人間ではないというだけで、私にはありがたかったのです。
ありがたかったですが、それが愛情かと言われると、違うような気がします。
一緒にいても平気というだけの話でした。
漠然と、今思うことは「愛するということは、相手の人生や相手にとっての幸福を考えることができるかどうか」なのではないかということです。
そして、相手も同じように、私の人生、私にとっての幸福について考えてくれるのなら、それが「愛される」ということなのかもしれません。
ヒトコトリのコトノハ vol.56
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