《恋人はセックス依存症(原題:Thanks for Sharing)》(2012、アメリカ)は主演のマーク・ラファロさんの濃い顔に惹かれて観た作品です。
日本語タイトルにある通り、セックス依存症に苦しんでいる人たちの闘病記のようなものです。
個人的には、原題の「Thanks for Sharing(共有してくれてありがとう)」(互助会の集いで参加者が言う言葉)の方がしっくり来るなと思いました。
誰かから共感を得ること、また誰かを理解することはとても難しいと私は思います。
親子や師弟、先輩と後輩、男と女といった立場の違いも、お互いの理解の妨げになります。
親だから、全てが正しいわけではないし、子供なら何をしても許されるということでもありません。
また、男性ならば当然のことが、女性には当てはまらないこと(その逆もありますが)が世間には沢山あります。
基本的に、人間関係は対等であるべきだとは思いますが、そう簡単には片づけられない事情があることも事実です。
完璧な人間なんていないのだから、お互いに思いやりを持って人と接しなければと思ってはいても、ついつい自分の感情を優先しがちなのが人間の性です。
それに、普段はとても温厚に見えた人が、実は恐ろしい犯罪を犯していたなんて話もよく聞きます。
人を判断するには何を基準にしたらいいのか、他人を完全に理解することの難しさを改めて感じます。
結局、自分自身の悩み苦しみは、自分で何とかしなくてはいけないのだけれど、実際、ひとりぼっちでは何もできません。
だから、断酒会のようなコミュニティーが必要になるし、お互いを支え合うことの大切さが身に沁みるのだと思います。
この作品は、普段の生活の中ではそんなに実感する機会は少ないので、つい見過ごしてしまいがちな人と人とのつながりを描き出した映画です。
世の中にはいろんな「物」に依存してしまう人がいます。
喫煙、お酒、麻薬、拒食、過食、賭け事、性衝動。最近では、買い物やネットゲームまで…
依存症に悩んでいる人たちに対して、どんなふうに接すればいいのか、どうすれば良好な人間関係を築けるかというのは、周囲の人間にとって大きな課題です。
この映画の中で、セックス依存症と闘う夫を持つ妻が、二人の関係を続けていくことについて次のように言います。
「(相手が病気であろうがなかろうが)まず、自分がしっかりあるべき。」
「(相手は)自分が選んだ人なのだから。」
この言葉にはハッとさせられました。
病気であるのは相手なのだから、問題は相手にあると思いがちですが、本当は誰かと一緒にいるということは、自分と向き合って、自分自身を見つめ直すことなんですよね。
相手との関係の中で、今まで知らなかった自分の一面を気づかされたり、自分の弱さや嫌なところを見せられてしまうのです。
病気の有る無しに関わらず、本当は自分の中にも沢山問題があるのです。
欠点のない人間はいないのです。でも、それらは普段、自己の内面に隠れていて分からないだけなのです。
あるいは、中にはそういう自分の側面を見ようともしない人もいるかもしれません。
自分が未熟であること、完璧じゃないことを周囲の人間のせいにして、安心感を得ている人もいるかもしれませんね。
自分と向き合うことは勇気の要ることですし、忍耐強くなければ自分を変えることはできません。
映画の中に出てきた、メインロールではないけれど、この作品の骨子を語るには欠かせない役どころの青年がいます。
彼はアメリカでは珍しくない典型的な肥満体型で、汚部屋に山積みのポルノを所有している救急救命士。
この彼は、食欲も性欲もコントロールできず、部屋で大量のピザやスナック菓子を食べ散らかし、地下鉄では痴漢行為をし、職場でも盗撮を犯してクビになるという、一言でいえば「キモブタ」です。
初めは、セックス依存症の互助会に参加しても、ダメダメな行動を繰り返していた彼ですが、同じように依存症に苦しむ仲間たちと過ごして行くうちに変わっていく様は、見ていて少し楽しかったです。
「うわっ!きも!めっちゃ最悪!女性の敵!社会のゴミ!」としか思えなかった彼が、最後にはイケメンに見えてくるという…(笑)
努力次第では、人は変わって行けるんだなーって観ながら思いました。
とはいえ、「依存症」という病気は完治が難しいものです。
この映画の患者たちみたいに、将来的に何度も問題にぶち当たったり、間違いを犯すのだと思いますが、例えそうでも、何度絶望しても、助け合える仲間がいれば、人は改善に向けて努力することができると、人間の資質のようなものを信じることができる。
そんな映画でした。
日本語タイトルにある通り、セックス依存症に苦しんでいる人たちの闘病記のようなものです。
個人的には、原題の「Thanks for Sharing(共有してくれてありがとう)」(互助会の集いで参加者が言う言葉)の方がしっくり来るなと思いました。
誰かから共感を得ること、また誰かを理解することはとても難しいと私は思います。
親子や師弟、先輩と後輩、男と女といった立場の違いも、お互いの理解の妨げになります。
親だから、全てが正しいわけではないし、子供なら何をしても許されるということでもありません。
また、男性ならば当然のことが、女性には当てはまらないこと(その逆もありますが)が世間には沢山あります。
基本的に、人間関係は対等であるべきだとは思いますが、そう簡単には片づけられない事情があることも事実です。
完璧な人間なんていないのだから、お互いに思いやりを持って人と接しなければと思ってはいても、ついつい自分の感情を優先しがちなのが人間の性です。
それに、普段はとても温厚に見えた人が、実は恐ろしい犯罪を犯していたなんて話もよく聞きます。
人を判断するには何を基準にしたらいいのか、他人を完全に理解することの難しさを改めて感じます。
結局、自分自身の悩み苦しみは、自分で何とかしなくてはいけないのだけれど、実際、ひとりぼっちでは何もできません。
だから、断酒会のようなコミュニティーが必要になるし、お互いを支え合うことの大切さが身に沁みるのだと思います。
この作品は、普段の生活の中ではそんなに実感する機会は少ないので、つい見過ごしてしまいがちな人と人とのつながりを描き出した映画です。
世の中にはいろんな「物」に依存してしまう人がいます。
喫煙、お酒、麻薬、拒食、過食、賭け事、性衝動。最近では、買い物やネットゲームまで…
依存症に悩んでいる人たちに対して、どんなふうに接すればいいのか、どうすれば良好な人間関係を築けるかというのは、周囲の人間にとって大きな課題です。
この映画の中で、セックス依存症と闘う夫を持つ妻が、二人の関係を続けていくことについて次のように言います。
「(相手が病気であろうがなかろうが)まず、自分がしっかりあるべき。」
「(相手は)自分が選んだ人なのだから。」
この言葉にはハッとさせられました。
病気であるのは相手なのだから、問題は相手にあると思いがちですが、本当は誰かと一緒にいるということは、自分と向き合って、自分自身を見つめ直すことなんですよね。
相手との関係の中で、今まで知らなかった自分の一面を気づかされたり、自分の弱さや嫌なところを見せられてしまうのです。
病気の有る無しに関わらず、本当は自分の中にも沢山問題があるのです。
欠点のない人間はいないのです。でも、それらは普段、自己の内面に隠れていて分からないだけなのです。
あるいは、中にはそういう自分の側面を見ようともしない人もいるかもしれません。
自分が未熟であること、完璧じゃないことを周囲の人間のせいにして、安心感を得ている人もいるかもしれませんね。
自分と向き合うことは勇気の要ることですし、忍耐強くなければ自分を変えることはできません。
映画の中に出てきた、メインロールではないけれど、この作品の骨子を語るには欠かせない役どころの青年がいます。
彼はアメリカでは珍しくない典型的な肥満体型で、汚部屋に山積みのポルノを所有している救急救命士。
この彼は、食欲も性欲もコントロールできず、部屋で大量のピザやスナック菓子を食べ散らかし、地下鉄では痴漢行為をし、職場でも盗撮を犯してクビになるという、一言でいえば「キモブタ」です。
初めは、セックス依存症の互助会に参加しても、ダメダメな行動を繰り返していた彼ですが、同じように依存症に苦しむ仲間たちと過ごして行くうちに変わっていく様は、見ていて少し楽しかったです。
「うわっ!きも!めっちゃ最悪!女性の敵!社会のゴミ!」としか思えなかった彼が、最後にはイケメンに見えてくるという…(笑)
努力次第では、人は変わって行けるんだなーって観ながら思いました。
とはいえ、「依存症」という病気は完治が難しいものです。
この映画の患者たちみたいに、将来的に何度も問題にぶち当たったり、間違いを犯すのだと思いますが、例えそうでも、何度絶望しても、助け合える仲間がいれば、人は改善に向けて努力することができると、人間の資質のようなものを信じることができる。
そんな映画でした。
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