Antique White

薔薇が咲いた日





5月9日(水)の朝、スパニッシュビューティーが開花していました。
もっこうばら(白)は既にちらほら咲き初めてはいましたが、中輪以上の薔薇が初めて開いたのです。
私にとっては特別な意味を持ちました。

ブログの更新が滞ったことの次第をご報告いたします。
ブログを公開している以上そうすることが読んでくださっている方への礼儀ですし、記録として残しておきたいので書きます。

5月4日(金)ゴールデンウィーク真っ最中ではありますが今年は一日だけお休みをいただきぐうたらしようときめていまた。
庭の薔薇の様子をチェックしたり、猫たちと戯れたりしながら時間が過ぎていった日でした。
午後、一休みをしていましたら病院から電話がかかり父が今日にも旅立つだろうとの知らせがありました。
直ぐに母に伝え、私は父の妹に知らせの電話をいれ、他の弟妹の方々に連絡をしてくれるようにお願いして直ぐに病院に向かいました。
ベッドの父は
と、ここまで書いて自分の記憶が曖昧になっている事に気づきました。この一週間に多くの事がありすぎたのでしょう。
もっと詳細にその日の出来事を記録しておこうと思ったのに記憶が薄れてしまっています。
なんとか覚えていて確かな事を書くことにします。
直ぐに父の弟妹、その伴侶の皆様が集まってくださいました。
数時間が過ぎても「その時」は訪れず、解散になりました。
父は、眼をつむり眠っていましたが、呼吸と呼吸の間が長くて苦しそう、でも、首筋のドクドクと血液の流れる心臓の働きが力強くて、まだ、大丈夫だと思わせてくれていました。
母と自宅へ帰り、部屋の片付けが始まりました。
山盛りの洗濯物、おきっぱなしのこまごましたもの、「ちゃんと日ごろから片付けしとけよ~。自分」と言いながら大忙しです。
病院からの連絡が来たらすぐに電話に出れるように母は夜もうとうととしかねていなかったようでした。
病院からの電話はなく朝がやってきました。
5日(土)既に病院に行ってきた母から父の様子を聞きました。いつものように右手を動かしているとのこと。身支度をして会いに行きました。
父は、右手を高くあげていました。
「くるしい?手が冷たいね」
うなずきました。
「これから仕事行ってくるね」
うなずきます。
がんばってねとは言えませんでした。だって、苦しいんだもの。もう、がんばってって言えない。
心を後にして家に帰ってきました。
仕事へ。私は大丈夫。元気を演じます。が、これからご迷惑をかけてしまうであろう状況を考えて上司に報告をし、いつものように仕事続行。
iPhoneを仕事のために使っているので仕事中はいつも携帯しています。が、メール・電話等の私用での使用はできませんが、自宅からの連絡がくるということで許可していただき、その都度対処できました。
6日(日)の朝も父は、いつものようにしていました。ただ、身体が冷たく相当血圧が下がっている状態でした。
「仕事行って来るね」
忙しい一日が過ぎて行きました。
私は大丈夫。苦しいのは私じゃなくベッドに横たわっている父だ。
いつものように笑顔。
自画自賛。わたしってすっげぇ~。つよくなったわ~。
サルサと過ごしたことや、今までの色んな事全てが血となり肉となって「どんなときも笑顔」になれる人間になりました。短気は直らないけど・・・・。笑
7日(月)休み
父は、天井を見上げたまま起きているけれどどこを見ているのかわかりません。声をかけても反応しません。ただ、首筋のドクドクドクという心臓の動きだけが生存の保障のようで、呼吸の回数とのバランスの悪さに不安が募るのです。
でも、もうすでに終わりは近い事はわかっていました。
8日(火)
仕事に行く前に父に会いに行きました。
もう、心臓がとくとくと動いているだけなんだなと実感しました。
そして、ちゃんと声に出して伝えておかなければいけない。でも、どうしよう。ちゅうちょしたのだけれど、声に出して父に言いました。
「教室への送り迎えありがとうね」
「仕事、行って来るね」
午後7時35分頃携帯の電話着信の音が鳴った。側にいるスタッフに断ってバックヤードにはいって電話に出ると母からで病院から連絡がったとの事。
直ぐに仕事の引継ぎをお願いしてダッシュで病院に自転車で向かった。
到着したのが7時59分頃。階段を降りてくる医師とすれ違った。
間に合わなかった。7時57分だった。
叔母が教えてくれた。
母は電話連絡をしているらしい。直ぐに母の元に行くと暗闇で電話をしていた。
iPhoneアプリで懐中電灯モードで照らしてあげた。
一通り連絡し終わって、父の元に戻った。
親戚が駆けつけ、私の弟たちが来て、葬儀やさんが父を自宅へ搬送してくれるまで1時間以上かかるということで、自宅へ戻りその準備。
臨終というものに立ち会えなかったけれどこみ上げてくる感情は起こらなかった。
朝で、お別れは済んでいたから。
9月20日に唐黷ト入院生活を見てきたから、その時の父の事を思うとこれ以上ベッドに横たわるだけの時間が過ぎて行く事のほうが辛く残酷なことだと実感していから。
人はただ息をして生きていればいいというものではないと実感として思ったから、悲しいと言うよりも父にとっては良かったと感じたのです。
人が死んで悲しいのは生きている人間の側の問題で、死んだものにとってどうだったのかを思うと死をきちんと受け止めてあげたいと思ったのです。
というよりも、その後、どたばたとあわただしい日々が始まるわけです。
葬儀やさんによって父は自宅に帰ってきました。
ちゃたろうくんが側によって来て、父の気配を感じたのかずっと側にいるのです。
その日の夜はずいぶんと長い間弟と話しました。
9日(水)朝、姉、甥、姪がやってきて、そうこうするうちに葬儀やさんが式の打ち合わせにやって来て、弟、姉、母とで葬儀の打ち合わせ中に私と弟と甥でお墓の砂利敷きをしに出かけ。
そんなこんなで色々事は順調に進んでいるかのように思えましたわよ!
ところがどっこい!そうは問屋が卸さなかったというわけでさぁ~。
どうして、くそも味噌もつくようなことばかりおこるわけ~!!!
どういうことがおきたか?
それが事実でも書いてはイケないこともあるらしいので、リアルでお話できる方には話しますわね。遠方でどうしてもお知りになりたい方は個人的にメールでお知らせくださいね。

つづく

コメント一覧

るー(chamamada)
たみいさん、コメントありがとうございます。
喧嘩ばっかりしていましたが、お願い事は何でも聞いてくれました。
だからこそ、甘えないように自分でできることは自己責任で行動していました。
女の子なんだからもっともっと素直に甘えたら良かったのかもしれません。

15日にいただいたコメントですがちょっと削らせていただきました。<m(__)m>
たみい
お父様のご冥福を心からお祈り申し上げます。
随分前に、チラッとだけお顔を見せて頂きました、ハッキリと思い出せます。
そして、るーさんの賢さや優しさや強さは、父上から受け継いだものと思われます。
そして、あなたと父上だけに分かる、親子の歴史と言いますか、軌跡は、
あなたの命がある限り消えることはありません。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日々」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事