記念艦 三笠
日露戦争〜日本海海戦 5
旅順港閉塞作戦〜軍神 広瀬武夫少佐
旅順港閉塞作戦は、日露戦争初期の重要な作戦でした。
明治37年2月18日、第1次旅順港閉塞作戦では、海軍が自軍の艦を沈めさせることの出来たのは、作戦に参加した5隻中わずか1隻、報国丸のみ。
しかも報国丸が自沈したのは、旅順港対岸の老虎尾半島側で、第1次閉塞作戦は文字通り失敗とされました。
第2次旅順港閉塞作戦では、初回の閉塞作戦で報国丸を指揮して唯一、自沈させることの出来た広瀬武夫少佐(後に中佐)が福井丸に座乗して指揮を執り、旅順港へ迫りました。
ロシア軍の要害と化した旅順港からは、機関銃と砲撃を受けながら広瀬少佐は福井丸を自沈させることが出来ました。
しかし、沈みゆく福井丸を離れた広瀬少佐は、部下の杉野上等兵の姿が見えないことに気付き、沈みつつある福井丸に戻り、船内をくまなく捜すこと三度、杉野上等兵を見つけることは叶わず、やむを得ずボートで離船した際に砲撃を頭部に被弾し、広瀬少佐は戦死しました。
広瀬少佐の勇敢で責任感ある行動は、士官の鏡とされ、日本本土に広瀬少佐の戦死の詳細が報じられると、人々を感動させ、軍神と称されました。
ただ、広瀬少佐らを犠牲にした第2次旅順港閉塞作戦も福井丸はじめ4隻が自沈させることは出来ましたが、旅順港を閉塞させるには至らず、第3次閉塞作戦も実行されたものの、旅順港に籠もるロシア旅順艦隊の航路は依然開いたままでした。
海軍の閉塞作戦が効果を挙げないことで、大本営は陸軍を動かし、旅順港及び旅順市街を囲む様にそびえる旅順要塞を陥落せしめる旅順要塞攻撃命令を発令します。
有名な203高地の戦いです。
6に続きます。