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日本歴史紀行

現代語訳 徳川実紀 34  桶狭間の戦い〜大高城兵糧入れ


桶狭間の戦い〜大高城兵糧入れ


母上との対面の感動の余韻も内に秘め、元康君は軍勢を二つに分けた。

家中で戦上手で知られる酒井正親、石川数正らを別動隊に八百の軍勢を指揮させて寺部城を攻めさせた。


元康君自らは、大高城へ運び入れる兵糧を積んだ小荷駄隊を、大高城から半里(約2キロ)あまり離れたところに控えなさった。


正親、数正らは寺部城を力推しで押し寄せ、城門を打ち破り、火をかけた後で引き上げ、すぐ様、支城である梅坪城を襲って二の丸、三の丸まで攻めかかった。

大軍が攻め寄せたと思い込んだ両城の城兵らは、元康君に攻められた前回の轍は踏むまいと本丸に籠もり、鉄砲を撃ちかけ、鬨の声を張り上げて、必死に防御しようと身構えた。

あまりに激しい銃声と鬨の声に、丸根、鷲津両砦の兵たちは、大高城の包囲を捨て、寺部城、梅坪城の救援に出てしまった。

諸城の攻め手が手薄になったことを、探っていた間者が知らせに戻ると、元康君は時は今と、控えさせておいた小荷駄隊の兵を急いで進められて、難なく兵糧を大高城にお送りなさった。

寺部、梅坪両城を攻めた別動隊も、丸根、鷲津の援軍が押し寄せる前にさっさと引き上げてしまい、元康君の入った大高城に集まった。





丸根、鷲津の兵が帰ってくると、騙されたことを悔いたが、どうにもならなかった。

岡崎出立の前、酒井、石川老臣達は一心に出馬を止めたが、元康君は聞き入れなかった。

大高城ご入城のあと、
〜どうやって このような功績を思いたったのですか。〜
と訪ねたところ、お笑いになり、

〜ただ、大高に兵糧を入れようとだけすれば、丸根、鷲津の皆が馳せ参じて防ごうとするだろう。だから両城の兵を散らせおけば、難なく入れられるだろう。〜

近きを捨て、遠きを攻めるは兵法の常道なり。
若年から、このような軍略に通じていることは、行く末がいよいよ頼もしき限り。


この話は、東照公の〜大高兵糧入れ〜として、若年第一の美談として語られる。



大高城跡〜名古屋市緑区、国指定史跡
桶狭間の戦い当日の未明に徳川家康が兵糧を運び入れ、今川義元はいよいよ戦勝を確信。









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