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日本歴史紀行

歴史紀行 地域版 80 - 6 札幌市開祖 志村鉄一碑、吉田茂八碑 6




志村鉄一邸宅跡地碑


江戸幕府の瓦解、明治新政府の起こした役所、北海道開拓使から来道してきた開拓判官〜島義勇(しま よしたけ)により、御役御免と通行屋の
建物の建材を献上する様に命じられ、職と住まいを一度に失ってしまった志村鉄一。

それでも抗うことをせずに豊平川から引き払い、かつて親しくしていた札幌の南の奥地で細々と湯治場を営む美泉定山を頼りました。


開拓使札幌本府本庁舎跡



開拓使札幌本府を開いた島義勇は、日本の新時代の理想郷を創る覚悟で札幌の町割りを始めました。


大通公園
現在の大通公園を中心に線引きして、大通から北を官庁街。南を新しく入植してくる住民達による住宅街として、碁盤の目の様に整然と町割りし始めます。

ただ、島義勇は開拓を急ぎ過ぎました。
北海道に都を創る理想も、彼が育った比較的温暖な九州西部の佐賀とは、寒さも自然環境もあまりにも違い、厳し過ぎました。


ひっそりと暮らし始めた志村鉄一の元に、開拓判官 島 義勇が明治政府から罷免されたと知らされます。

開拓、札幌の町割りを急ぐあまり、予算を僅か3ヶ月で使い切ってしまったことが理由でした。



島義勇 像

志半ばで北海道を去った島義勇は秋田県令を務めた後に明治7年に故郷、佐賀で不平士族の乱である佐賀の乱を明治政府の職を辞した江藤新平らと起こして敗れ、斬首刑に処されました。

罪人として処刑された島義勇ですが、現在の道都、札幌市の町割りで果たした役割りは非常に大きなものでした。

志村鉄一はその後、住み慣れた豊平川近くに再び戻りました。

鉄一が亡くなったのは1879年 明治12年のことです。

志村鉄一の晩年に家族ぐるみの親交のあった阿部与之助の家に伝わる話によると…。

真冬の厳しい寒さと吹雪の日が続きました。

ようやく吹きすさんでいた吹雪が止み、与之助が養女に志村の様子を見にいくよう指示しました。

養女が深雪の中を漕いで志村鉄一宅に行き、窓から覗いてみると、鉄一は消えた囲炉裏のそばで、刀を抱いて眠るように息絶えていたそうです。

傍らには飲みかけの酒の茶碗がおいてあった…といいます。

幕末の混乱期に招かれて未開の札幌に入り、
やがて新時代、明治の荒波の渦の中に札幌市最初の住民となった志村鉄一は消えていきました。

7に続きます。





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