長篠、設楽ヶ原古戦場
愛知県新城市大宮清水
1575年 天正3年5月21日
長篠の戦い
世に有名な信長の鉄砲の三段撃ちが行われた戦いと言われるのが長篠の戦いです。
長篠、設楽ヶ原の戦い〜経緯
長篠 設楽ヶ原の戦いは、徳川家康が武田信玄 存命の時に奪われた長篠城を、信玄病没後に国衆でもある城主 奥平貞昌に娘 亀姫を嫁がせて調略
して従わせ、それに激怒した信玄の跡を継いだ武田勝頼による長篠城包囲戦から始まりました。
長篠城 本丸跡
武田勝頼は一万五千の軍勢で長篠城を包囲し、決死の脱出を謀った奥平の家臣 鳥居強右衛門が岡崎城の徳川家康に救援を依頼したことから家康は直ちに軍勢を進発。
また家康の意を受けた織田信長も大軍勢を岐阜から動員しました。
鳥居強右衛門 上陸地
奥平家の足軽、鳥居強右衛門は包囲されている長篠城から脱出し、岡崎城の徳川家康と援軍の織田信長に危機を知らせ、仲間の城兵が籠もる長篠城へ戻ろうとするも、武田軍に捕まります。援軍は来ないと仲間に訴えれば、助けてやると武田軍に命じられ、城の前に連れ出された強右衛門でしたが、家康、信長の大軍がやって来るから強固に守られよと大音声で叫び、仲間を叱咤、激励します。
強右衛門は武田軍に磔刑にされましたが、長篠城兵は援軍の到着まで城を死守し、武田軍は家康、信長が待ち受ける設楽ヶ原の戦いに挑むことになります。
設楽ヶ原古戦場
家康と信長は鉄砲の軍勢を多数動員して東三河の設楽ヶ原に布陣して長大な馬防柵を構築して武田勝頼を待ち伏せます。
武田勝頼 本陣跡
前日、信長の鉄砲隊を借りた徳川方の酒井忠次が長篠城を包囲する武田軍を襲撃し、長篠城を救援。
退路を絶たれる危惧を感じた武田勝頼は重臣らの具申を退けて信長、家康軍との対決を決め、設楽ヶ原に布陣する家康、信長軍に対峙します。
設楽ヶ原古戦場 馬防柵
5月21日早朝、設楽ヶ原に着陣した武田軍は、野戦構築された馬防柵の向こうに布陣した信長、家康の軍勢に対して猛攻を駆けますが、鉄砲隊の銃撃と長槍に為す術なく討ち取られ、信玄以来の主だった重臣の多くを失いました。
山県昌景の墓
馬場信房の墓
この戦いは戦国時代に綺羅星の如く君臨した武田軍に壊滅的打撃を与え、この敗北後7年足らず後に滅亡します。