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日本歴史紀行

現代語釈 信長公記 10  清洲城乗っ取り 4



清州城乗っ取り


清州城に居る守護代は、織田達勝の後、織田信友であった。

領主の坂井大膳は、守護代の補佐官である。

先の合戦で織田三位らが相次いで討ち死にしてしまったため、こうなったら織田信光に頼ろうと考えた。

【信光殿と信友殿、お二人が守護代になって下さい。】と懇願したところ、ほどなくして、【大膳の望むとおりに】と返答があり、【決して二心はない】との起請文を書いて送ってきて、事は大膳の望むようにうまくまとまった。

翌年、天文二十四年 四月十九日、織田信光は居城の守山城から清州城の南櫓に移った。

実は信光は、密かに信長に、申し入れ、【某が清州城を乗っ取ってみせましょう。その代わり、於多井川という川かありますが、この川を境に尾張の下四郡の東側を某に下さい。】と約束を交わしていた。

織田信光は、信長の叔父にあたり、信長と密かに通じて尾張の下四郡を領有しようと考えた。


四月二十日、信光は城内に兵を潜ませ、頃合いをみて討ち取るつもりで坂井大膳を饗応に招いた。

応じた大膳が清州城へ近づくが、異様な気配を察して逃げ去ってしまい、そのまま駿河の今川義元を頼って居着いてしまった。

次いで信光は、守護代 信友を次第に追い詰めて切腹させ、まんまと清州城を乗っ取ってしまい、清州城を信長に明け渡し、自分は那古野の城に移った。

だが、この年の十一月、不慮の事件により信光は横死した。

起請文に背いた天罰か下されたのよと、世間では噂されたが、信長にとっては幸運であった。




天文二十四年〜 1555年

於多井川 現在の庄内川

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