リベラルくずれの繰り言

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「表現の不自由」展やシンポの中止:威圧的なクレームが跋扈する社会はなんとかならないか

2019-08-18 | 政治
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が慰安婦を表わす少女像などを展示したことで激しい抗議を受け、テロ予告や脅迫も相次いで中止に追い込まれた件。これについては三つの側面があると思う。
(1)SNS社会になって多数の批判が殺到しやすくなったこと
(2)度を越した威圧的な抗議
(3)抗議をあおる政治家
(テロ予告については問題に数えなかった。「中止」を批判する人々がいうように警備をきちんとすればいいことだ。)

このうち(1)はやむを得ない。逆に政府が民意を無視した事業を強行しようというときに批判が盛り上がったりする場合もあるわけで、民衆がつながることで批判を盛り上げること自体は責められるべきではない。「保育園落ちた、日本死ね」のツイートが拡散して政府が対策に乗り出したことも記憶に新しい(その方向性はとんちんかんだがそれはまた別の問題)。昨今、企業広告に抗議が殺到するとか(朝日新聞デジタルなど)、タレントがバッシングされるといった事例も相次いでおり、正直やりにくいだろうなとは思うが、これは時代の必然だ。

政治家がそうした批判の先頭にたつという(3)は問題だが、政治家が自分の信条に従って主張を発信すること自体は責められるべきではない。私は慰安婦像が気に入らなくてもそれを「展示すること」自体を批判するというのは政治家としての資質に問題があると思うのだが、政治家の発信自身を非難することはできない。(※この点についてはその後、考えを改めた。「展示・発表の中止を求めることは言論の自由に矛盾する」参照)(もちろん、政治家が電話攻撃を組織したりすれば問題だが、今回の場合、おそらくそこまではしていないと思う。)ただ、市議くらいならともかく、一般論として、首相とか官房長官など、地位の高い人ほど個別的な事案について過度な批判を声高に発信することは慎む必要があるとは思う。

やはり問題は(2)の威圧的なクレームだ。企業の商品やサービス、広告に関するクレームでも「悪質クレーム」は問題になっているが、今回は表現の自由にもからんでくるだけに問題はより深刻だ。「表現の不自由展」の場合、慶応大の憲法学者が「自分のお金・時間・場所で同じ表現を行うことは規制されていない」から表現の自由の侵害を裁判で主張するのは難しいと述べているのを見て驚いた(朝日新聞2019-8-18)。今回たしかに公金が投じられていることを理由とする批判もあったようだが(asahi.comによれば企画展の費用は寄付で賄うことにしたようだ)、仮に助成金がなかったとしても、同じような事態になったのではないだろうか。行政が表現の自由を侵害したわけではない、「社会全体として」表現の自由によって得られるはずだった価値を傷つけられたという点で教授は間違ってはいないのだが、強圧的なクレームによる職員の疲弊という視点が欠落している。教授は「誰が表現の自由を制約したのか」という問いに、中止を決めたのは実行委員会と芸術監督の津田大介氏だと指摘しているが、中止に追い込んだのは大衆の言葉の暴力(電話内容の検証を待つ必要があるが、私は言葉の暴力があったと思っている)だ。

やはり、政治的な表現にしても企業やタレントの活動にしても、批判はするにしても節度をもってすることが当然であるような社会になってほしいものだ。

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関連リンク:
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追記:来年の「ひろしまトリエンナーレ2020」では、「表現の不自由展」に出展した作家らの作品も展示されるそうだ(朝日新聞2019-10-6)。反射的に、何もわざわざ炎上を呼ぶようなことを記事にしなくても、と思ってしまったが、やはりそうではない。展示会・講演会を開くのにびくびくしてひっそりやらなければならないのはおかしい。「不自由展」中止後には「あいちトリエンナーレ2019」の津田芸術監督が参加予定だったシンポジウムも中止に追い込まれた(過去ブログ)。こんなことが続いていくと、どんどん電話攻撃者の思うままになってしまう。発表内容に対する批判はあるにせよ、発表自体をつぶそうという動きに委縮しないようにしたい。

追記2:言論弾圧を自分には関係ないと思っているうちに弾圧の対象が徐々に広がり、社会全体の自由がなくなっていったナチス時代に関するドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉を「折々のことば」(朝日新聞2019-10-4)で思い出した。次の引用はウィキペディアより。
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」

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