引き続き、尾高朝雄著『法の窮極に在るもの』ノート。
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:09
>>国際連合は、根本の構想においては国際連盟の延長であり、発展である。すなわち、国際連合は、「一切の加盟国の主権平等の原則に基礎を置く」ものである。一九四五年一二月二七日に憲章の批准を完了した加盟国は五一カ国であるが、
連合は、これらの諸国がいずれも平等の主権国家であるという建前の上に立っている。のみならず、第二次世界大戦において連合国の敵国であった国々も、憲章の義務を受諾する平和愛好国であるという実を示し、安全保障理事会の勧告にもとづいて一般総会が加入を可決すれば、
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:18
国際連合に加入することができる。むしろ、世界のすべての国家が平和愛好国になって連合に加入し、連合が名実ともに世界連合となることが、国際連合機構設置の目的でなければならぬ。そうなった暁には、地球上のあらゆる国家が、領土の大小、人口の多少、実力の強弱にかかわらず、ひとしく平等の
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:32
主権国家として取り扱われ、その合意を基礎として国際連合が存立し、その平和維持のための機能が営まれることになるのである。故に、連合は、文字通りの国際連合である。国際連合に包摂せられるべき世界は、今後といえども国際社会としての構造をもつ。国際連合は、国家の主権を否定もしくは制限する
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:32
世界連邦ではない。政治上の単一体はあくまでも国家であることを認め、国家を単位として世界の構造を規定して行こうとする点では、国際連合は国際連盟と全く同一の線の上に立っているといっても差つかえない。
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:52
(ibid.s271)
※
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:53
もともと、本書を読み始めた動機は、日本の憲法問題を考える上で、必読の文献とは何か、を考えようと思ったからだった。尾高の本書がその一つであるかもしれないと予想したのだけれど、しかし尾高のヘーゲル法哲学の「読解」の実際を知って、それに値しないと思った。浅学な私の知る限りでは、
今の所、憲法問題を考える上での必読文献としては、ヘーゲルの「法の哲学」以上のものは見当たらない。しかし日本の凡俗憲法学者の誰一人として「ヘーゲル法哲学」をアウフヘーベンして自らの憲法学を打ち立てたものはいない。尾高にそれを求めたが期待はずれだったようだ。国際連合についても、
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:54
その価値についてはむしろ否定的であるけれども、現実に機構として存在しているという意義は肯定せざるを得ない。時代的な背景もあってか、国際連合に尾高は期待と評価を与えている。国際連合の「意義と限界」について考え直す参考にはなると思う。
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 16:55
>>
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 17:03
しかしながら、国際連合は、もとより決して単なる国際連盟の復活たることを以て満足するものではない。連合は、すでに失敗の生々しい経験を経ている国際連盟の、単なる旧套を墨守しようとするものでは決してない。横田喜三郎教授のいわれるように、「国際連合は連盟よりもはるかに進歩した
機構である。連盟の精神を受けつぎ、大体にその線に沿いながらも、はるかにこれを乗りこえ、ほとんど飛躍的な発展をとげている」のである。
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 17:03
(ibid.s 271)
>>
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 19:27
国際社会の秩序は、“法秩序”でなければならぬ。そうして、法秩序は、秩序の撹乱者に対して有効な強制を行うのでなければ、守られ得るものではない。そのためには、秩序の擁護者の側に、有効な強制を行ない得るだけの、強大な武力が備わっていなければならなぬ。カントは、永久平和のための
予備条項の一つに、常備軍の撤廃ということを数えた。けれども、それは、問題を解決する道を、法がそれに沿うて発達すべき線とは逆の方向に選ぼうとしたものといわなければならぬ。なぜならば、平和を確保するためには、むしろ少数の国家が一般の国家の水準からはるかに隔絶する軍備を保有することが、
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 19:27
絶対に必要だからである。その武力が、国際法秩序を有効に――しかし正しく――裏打ちする強制力としての意味をもつ場合にのみ、国際社会はその固有の実定的な法を備え得たことになるであろう。そうして、国際社会は何はともあれ平和と秩序とを維持せねばならぬという理念は国際強制力の担当者たる
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 19:28
少数の強国相互の間に致命的な衝突が起こらないかぎり、それによって一応現実化され得たこととなるであろう。(ibid.s274)
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 19:30
※
ここで尾高は「国際法秩序を有効に――しかし正しく――裏打ちする強制力としての意味をもつ場合にのみ、国際社会はその固有の実定的な法を備え得たことになる」
と述べている。そして、そこに「―しかし正しく―」という留保を付けているけれども、この軍事強国の「正しさ」を保証するものが何であるかを明らかにしていない。というよりも明らかにはできない。それは、先に尾高のヘーゲル読解批判で明らかにしたように、「軍事強国」の「正しさ」を証明するのは、
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 21:37
究極において「世界精神の理念の必然性」に求めざるをえない。それは尾高朝雄が誤解して「かように、戦争をも理念化しようとするヘエゲルの現実絶対肯定の歴史哲学は、世界精神を神となし、あるがままの世界史を神の摂理の顕現としてこれに惑溺する態度である。」と批判したことに
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 21:37
無理からぬ面もある。
— review (@myenzyklo) 2018年5月20日 - 21:37
『尾高のヘーゲル批判への評注』 goo.gl/1ZCPAS
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます