夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

「議論となる要点」について、 pfaelzerweinさんへ。

2007年04月27日 | 国家論

「議論となる要点」について、 pfaelzerweinさんへ。

pfaelzerweinさん、コメントありがとうございました。

先日の私の「ドイツ文化と日本文化」の小論が、趣旨の不明確な取り留めのない駄文であったために、テーマの整理に余計な苦労をおかけしたかもしれません。そこでのテーマは「日本において民主主義の可能性はあるか」というもので、さし当っての私の結論は、「そのための前提としては、日本国民の宗教改革が必要である」というものでした。

とりあえず、pfaelzerweinさんがコメントで提起された論点について、さらに逐条的に私の考えを書いておきたいと思います。こうしたテーマに興味を持たれる方もおられるかと思い、新しい記事として投稿しました。くどくなるかもしれませんが、お許しください。


①ヨーロッパの集合体は、その個の特徴を際立たせながらキリスト教的「文化的共通性」でEUとして存在していないか?


ヨーロッパの諸民族、ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリア、ポーランドなどは、それぞれに民族的な特徴を際立たせていると思いますが、一方で、キリスト教という伝統的な「文化的共通性」も保持している点も、これらヨーロッパ諸国の特徴であると思います。私の論考ではヨーロッパ諸民族の個性を強調しましたが、それは、キリスト教という共通の文化的土壌の存在を否定するものではありませんでした。むしろ、キリスト教の普遍性は、それぞれの民族の特殊性、個別性を十分に発展させるところにこそあると思います。

②東アジアは、儒教的な世界観の文化的共通性を強調して大東亜共栄圏の集合体とすることが出来るか?

これだけ思想や価値観の多様化した現代およびこれからの将来においては、「儒教的な世界観の文化的共通性」を土台として、東アジアの共同体を形成するのはむずかしいだろうと思います。共同体の形成の前提としては、やはり、キリスト教の完成とその帰結としての「自由と民主主義」が原理になるだろうと思います。
        
参照  北東アジアの夢


③近代化の手順として、立憲体制の確立は、また国体をその基礎においたのは、主体的な導入への苦肉の策ではなかったのか?


明治維新とその後の「大日本帝国憲法」の制定による、日本の立憲君主体制の成立は、その議会制民主主義という点で、多くの特殊日本的な欠陥と弱点を抱えてはいたものの、それは「主体的な導入への苦肉の策」というよりも、やはり日本が選択せざるを得なかった必然的な政策だったと思います。現代の国家は、その歴史的、伝統的制約の中で、民主主義体制としては、大統領制か立憲君主制を選択するしかないのだろうと思います。

④インドや香港、フィリッピンなどの植民地は、近代的国家で日本より民主化している(いた)のか?

私の伝えたかったことは、インドや香港、フィリッピンなどの植民地化された国民や民族の国家や民主主義は、日本と比較して、それらの民族固有の伝統文化の基盤の弱さのゆえに、十分な主体性を欠いたものとなったのではないかというものです。植民地化されたこれらの国々の民主主義は、その民族固有の精神を失った、あるいは少なくともそれらを十分に媒介しない、いわば植民地的「民主主義」になっているのではないかというものです。だから、肯定的な評価ではなく、むしろ否定的なものです。それは、日本が欧米文化を翻訳を通じて受け入れたのに、それらの国では、旧主国の言語である英語を通じてそのまま直接に受け入れたことにも現われています。

⑤敗戦によって否定されたのは、「自由と民主主義」への動きでなく、時代遅れの植民地主義やそのもの国体ではないのか?


その通りだと思います。明治の「自由民権運動」や大正時代の「普通選挙運動」は決して、否定されてはいないし、否定されるべきものでもないと思います。問題にしたいのは、戦後の日本の「民主主義体制」が、太平洋戦争の日本の敗北によって、占領軍によって直接的にもたらされたものであって、明治の「自由民権運動」や大正時代の「普通選挙運動」などの日本国民の主体的な運動の延長として獲得されたものではないというこの一点です。

⑥戦後の民主主義は、戦前の民権運動などとどのように違うのか?少なくとも天皇制を自ら護持した一方、そこに文化的な主体性は本当になかったのか?


これは⑤の論点ともダブりますが、「天皇制を自ら護持」するなど「文化的な主体性は」日本国民にまったくなかったと言おうとするものではありません。ただ、日本の戦後の民主主義で問題にしたい点は、マルクス主義のいわゆる「ブルジョア国家性悪説」の影響もあるせいか、あるいは戦前の軍国主義の反動のためか、それが「国家意識」を否定するか、もしくは喪失していることと、戦後日本人の植民地文化的なアメリカ型民主主義の浅薄で表面的な模倣です。


⑦欧米諸国の価値観とは「自由と民主主義」を指すのだろうが、その刻々と変化し変遷する価値観を、どのようにして確認して現実化していくのか?


「自由と民主主義」は欧米諸国の価値観ではあると思いますが、それは決して特殊な、すなわち、欧米諸国の独自の「固有の」価値観であるとは思いません。「自由と民主主義」は、民族を超越した普遍的な価値観であると考えています。それは、キリスト教が特殊な民族宗教でないのと同じだと思います。
また、「自由と民主主義」の現実化の問題については、それはキリスト教が実質的に日本国民の支配的な宗教となることによって実現されると思います。


⑧キリスト教の意識なくして、「自由と民主主義」が無意味か?そもそも宗教改革の意味と近代の「自由と民主主義」は同義か?むしろ出自はフランス革命や市民革命ではないのか?


キリスト教の意識なくして、「自由と民主主義」は無意味だとは思いません。なぜなら、民主主義とは「完成された」キリスト教のことだと考えるからです。民主主義においてキリスト教はアウフヘーベンされていると思います。民主主義は世俗化されたキリスト教でありながら、キリスト教とは独立したそれ独自の価値を形成していると思います。
また近代の「自由と民主主義」の真の出自は宗教改革であると思います。イギリスの市民革命は、この宗教改革の上に成立した政治革命であると思いますが、フランス革命や日本の「戦後民主改革」は「宗教改革」なき単なる政治革命であり、そうした革命は、フランス大革命や毛沢東の「文化大革命」、北朝鮮の「千里馬運動」などに同じ運命をみるように、誤ったものです。

⑨大ドイツ統一の市民革命が頓挫して、プロテスタンティズムの自由主義や工業化へと向けられたドイツが進むのも結局は遅れた植民地主義ではなかったのか?

ドイツでは、プロテスタンティズムとして宗教改革は実現しましたが、イギリスやフランスのような市民革命、政治社会革命、民主主義革命には失敗しました。それが、ドイツがナチスドイツのような全体主義、民族主義に傾斜してゆく原因になったと思います。

⑩プロテスタンティズムの実現として最も代表的なのは英米の社会や経済ではないのか?

宗教改革(プロテスタンティズム)の上に立脚した政治革命(名誉革命や独立革命)を実現したのはやはり英米で、その社会と経済が代表的であると思います。中国やフランスやロシア、ドイツ、日本等のそれは、宗教改革なき政治革命か、あるいは政治革命なき宗教改革という点で、典型的概念的ではないと思います。


⑪消費社会としての日本や、躍進する中国の精神的な基盤や世界観は、プロテスタンティズムの影響を受けていないのだろうか?また、そうした批判が出ない理由は何処にあるのか?

現代の日本や中国などの諸国が、政治的な統治原理として民主主義を標榜しているかぎり、その「精神的な基盤や世界観」において、プロテスタンティズムの影響を受けていないことなどありえないと思います。現代民主主義そのものがプロテスタンティズムの帰結であると考えるからです。それに、グローバリズムの嵐は、アメリカ・プロテスタンティズムを源流としています。プロテスタンティズムの影響は世界史的なもので、どのような個人、民族、国家もその影響からのがれることはできないと思います。

 

以上pfaelzerweinさんのさまざまな問題提起について、さし当って私の考えるところを記しました。これまで、こうしたテーマでブログを書いていても、なかなか議論の成立しないのは、日ごろ残念に思っている点です。これは、日本の学校における民主主義教育の未熟と無能力の問題として、とくに政治家、学校関係者などに深刻に自覚して欲しいと思っているところです。それを補うものとしてこのようなネットにも、教育改革の一つの可能性を見出せればよいのですが。

pfaelzerweinさんのお住まいのドイツでは、その民主主義やブログ上の議論の実情はどのようなものでしょう。私のドイツ語や英語の語学が弱く、せっかくインターネットという手段を手にしながら、まだ直接に海外に発信して議論できないのは残念に思っています。

なお、私のブログ上での議論についての考え方は、次の記事に書いてあります。(ブログでの討論の仕方)

少しくどくなりましたが、とりあえず、pfaelzerweinさんの提起された論点について、逐条的に私の考えを書いておきました。また興味の持てるテーマがあれば議論しましょう。また、これからも引き続きあなたのブログで、ドイツからの風を極東の日本にもお送りください。

                                             そら(私のHNです)

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ドイツ文化と日本文化 | トップ | 教育の再生、国家の再生 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国家論」カテゴリの最新記事