法務省は、死刑を執行する東京拘置所内の刑場を報道機関に公開しました。新聞の写真や図、説明を読みながら、死刑制度そのものが現状として必要なのかどうかについて改めて考えることができました。千葉法務大臣も、死刑制度を見直すきっかけにしてほしいという考えのようです。
執行室の奥にボタン室があり、そのボタンが3つあり、そのどれかが死刑囚を落下させるスイッチになっています。実際の場合は、3人の刑務官が一斉にそのボタンを押し、落下させたスイッチを誰が押したものだったかどうかは、わからないようになっているそうです。刑務官は『手が震えるほどの緊張感の中、「執行されるのは許されない罪を犯した者だ、社会正義のためにやらないと」と自分に言い聞かせ』ボタンを押しているとのことです。
刑場施設には、立会室<ガラスを通して執行状況を見守る場所、執行室の下の様子も見られるようになっている>、教誨(きょうかい)室<執行前に宗教者に教えを受ける部屋>、前室<死刑囚に正式に死刑執行が告げられ、目隠しをされ手錠もかけられる部屋>、前室と隣り合う位置にある執行室<死刑が執行される部屋。死刑囚の首にかけるロープを通す滑車が天井に設置され、床には赤で縁取られた1.1m四方の「踏み板」がある。この踏み板が開かれることで、死刑囚は落下し、刑が執行される>、ボタン室<踏み板を開くボタンが3つあり、そのうちの1つがスィッチになっている。執行の際には刑務官3名が同時にボタンを押す。>
死刑囚は、教誨(きょうかい)室で最後の教えを受け、前室で正式に執行宣言を聞き、目隠され、手錠をかけられ、刑務官たちに両脇を抱えられて執行室へと向かい、踏み板の場所に立たされ首にロープをかけられ、ボタン室のスイッチで落下するといった流れで、死刑は執行されるのでしょうか。
以前のブログで紹介した死刑囚:島秋人の最期の場面が頭に浮かんでくるようです。
人が人を裁くことはあっても、人が人の命を公に奪うような仕組みがあっていいのでしょうか。
確かに、犯罪があまりにも悪質で、残された遺族の方の悔しさや辛い思いを考えると、死をもって償う死刑制度もやむを得ない制度と考えることもできると思います。しかし、罪を犯した者が、自分のしたことを心から悔い、被害者や遺族に対して真摯に償いたいという心情を抱くようになった場合はどうでしょうか。島秋人は、まさにそうでした。犯した罪を悔い、被害者の方や遺族の方に心から申し訳ないと思い、死刑を受けることで自分の犯した罪を償いたいと考えていました。その思いが次の短歌に込められています。
◎ 母在らば死ぬ罪犯す事なきと知るに 尊き母殺(あや)めたり
自分に母が生きていてそばにいてくれたら(秋人が小さい頃、母親は結核で亡くなっている)死刑を受けるような犯罪を犯したりはしなかっただろう。それなのに、自分は被害者の家族にとってとても大切な人である母親を殺してしまったのだ。
結果的に死刑は執行されたわけですが、その時の島秋人は犯罪者の顔ではなく、豊かな感性と誠実で純粋な心を持った一人の人間としての顔を持っていたはずです。
次の短歌も、島秋人が死刑前日に詠んだものです。
◎ この澄めるこころ在るとは識らずきて処刑まつひととき温(ぬく)きいのち愛しむ
それでも、死刑制度に沿って死して償うことが必要なのでしょうか。
私は、犯罪者の顔ではなく一人の人間としての顔を取り戻し、生きて償うことの方がより大切なのではないかと考えます。
死刑制度肯定論の中に、死刑が犯罪を抑止する上で効果があることを強調する考えがあります。これは、死刑になりたくないから犯罪を犯さないといった考えにも結びつき、罰を恐れて犯罪を犯さないといったことでは、自らの正しい判断のもとで犯罪を犯さないといった考えに発展していかないのではないかと思います。
更生という言葉がありますが、その意味は生き返るということです。これまでの生き方を改め、新たな生を生きるという意味です。しかし、死刑制度は更生を否定する考えでもあります。命を断たれた者が、どう生き直すことができるのでしょうか。
命の尊さを理解している人間が命を否定することはできないのではないでしょうか。
死刑囚であるからこそ、島秋人は、命の尊さを次のような短歌で表現しています。
◎ 生かさるるひと日尊び思ふ夜の総(す)べてのもののいのち愛(いと)ほし
この短歌も、死刑前日につくられたものです。
死刑制度の必要性について、改めて考え直してみたいものです。。