雪の降る場面で頭に浮かんでくるのが、民話「かさこじぞう」(岩崎京子:文)です。
売れずに残ったすげがさを、じいさまが地蔵様にかぶせてあげる場面です。
以前にもブログに書いたことがあるのですが、改めて取り上げてみたいと思います。
むかしむかし、あるところに、たいそうびんぼうで、その日その日をやっとくらしておった
じいさまとばあさまがおりました。ある年のおおみそか、じいさまとばあさまは もちこの
よういもできたらと考え、夏の間にかりとっていたすげでかさを五つつくります。
じいさまはそれをしょって町に売りに出かけます。町には大年の市が立っていて、正月買い
もんの人で大にぎわいでした。しかし、じいさまが「かさこはいらんか」と声をはりあげても
誰もふりむいてはくれません。しかたなく、じいさまは帰ることにしました。もちこも持たん
で帰れば、ばあさまはさぞかしがっかりするじゃろうのう。いつの間にか日も暮れかけ、じい
さまはとんぼりとんぼり町を出て、村の外れの野っ原まで来ました。
次からは、印象的な場面ですので原文のまま取り上げます。
風が出てきて、ひどいふぶきになりました。
ふと顔を上げると、道ばたにじぞうさまが六人立っていました。
おどうはなし、木のかげもなし、ふきっさらしの野っ原なもんで、じぞうさまはかたがわだけ
雪にうもれているのでした。
「おお、お気のどくにな。さぞつめたかろうのう。」
じいさまは、じぞうさまのおつむの雪をかきおとしました。
「こっちのじぞうさまは、どうじゃ。ほおべたにしみをこさえて。それからこのじぞうさまは
どうじゃ。はなからつららを下げてござらっしゃる。」
じいさまは、ぬれてつめたいじぞうさまのかたやらせなやらをなでました。
「そうじゃ。このかさこをかぶってくだされ。」
じいさまは、売りもののかさをじぞうさまにかぶせると、風でとばぬよう、しっかりあごのところで
むすんであげました。
ところが、じぞうさまの数は六人。かさは五つ。どうしても足りません。
「おらのでわりいが、こらえてくだされ。」
じいさまは、自分のつぎはぎの手ぬぐいをとると、いちばんしまいのじぞうさまにかぶせました。
「これでええ、これでええ。」
そこでやっと安心して、うちに帰りました。
以前、国語の公開研究会でこの場面を扱った2年生の授業を参観したことがありました。
じぞうさまの様子を見て、おつむの雪をかきおとし、ぬれてつめたいじぞうさまのかたやらせなやらをなで、
売りもののかさを風でとばぬようしっかりむすんであげ、最後のじぞうさまには自分のてぬぐいをかぶせて
あげた じいさまの行為を一つ一つていねいに取り上げた授業でした。じぞうさまに対するじいさまのやさ
しさ(孫に対するような)とともに、【お気のどくにな、…ござらっしゃる、かぶってくだされ】といったじい
さまのじぞうさまを敬う気持ち(信仰心)にまでふれる授業だったように記憶しています。
子どもたちも活発に意見を述べ、教師の発問や授業の流れも的確だったと思いましたが、何かもう一つ欠け
ているような印象がありました。それは、情景の読み取りに関わることでした。
じぞうさまの様子からも想像できることですが、そこはさえぎるもののないふきっさらしの野っ原で、さらに
ひどいふぶきだっことを考えると、じいさまの肩にも背中にも顔にも雪が吹き付け、凍えるような寒さの中で、
じいさまはじぞうさまの雪を指先でかきおとし、せなやらかたやらをなで、風でとばされぬようにかさをかぶせ、
手ぬぐいをかぶせたのではないでしょうか。寒さをしのぐ手ぬぐいまでとってじぞうさまにかぶせてしまい、じ
いさまの頭も顔も雪まみれになっていたのかもしれません。それでも「これでええ、これでええ。」とやっと安心
した表情で吹雪の中を帰っていくじいさまの背中や肩にも雪は降り積もっていたのかもしれません。そんな情景に
も目を向けて読んでいくと、じいさまの様子やその時の表情までがあざやかな絵になって見えてくるのではないで
しょうか。とんぼりとんぼり帰りかけたじいさまの沈んだ表情が、かさや手ぬぐいをかふぜてあげることで、穏や
かなやさしい笑顔に変わっていることにも気づいていけるような気がします。
この民話の最後には、かさと手ぬぐいをかぶせてくれたお礼に、じぞうさまたちがそりに米のもち、あわのもち、
みそだる、にんじん、ごんぼ、だいこんのかます、おかざりのまつなどを積んでじいさまとばあさまのうちに届ける
場面があります。
そのおかげで、じいさまとばあさまはよいお正月をむかえることができたのですが、不思議なことが一つあります。
じぞうさまたちがお礼を届ける際に、「六人のじぞうさ かさことってかぶせた じさまのうちはどこだ ばさまの
うちはどこだ」と歌っていたことです。かさをかぶせたのはじいさまだったわけですが、歌にはばあさまのことまでふ
れてあります。その理由は、もしばあさまがおじぞうさまの様子を見たら、きっとじいさまと同じようにかさをかぶせ
てくれるだろうとじぞうさまたちが考えたからなのでしょう。じいさまがかさをかぶせて帰ってきたとき、ばあさまは
かさが売れなかったことにいやな顔ひとつせず、こういいます。「おお、それはええことをしなすった。じぞうさまも、
この雪じゃさぞつめたかろうもん。…」このばあさまの言葉にあるように、寒さに凍えるようなじぞうさまを見たら、
ばあさまもじいさまと同じことをきっとしてくれただろうと、じぞうさまたちは考えたのだと思います。
また、こんな印象的な場面もありました。大みそかの夜、じいさまとばあさまは食べる物もないので、いっしょにもち
つきのまねごとをし、つけなをかみかみ、お湯を飲んで休む場面です。貧しい中にあってもそれを苦にしない明るさと強さ
を持った二人のあたたかい絆に、心の中まであたためられるような気がしてきます。
改めて読み返してみますと、近代化の流れの中で失われつつある人間としての優しさや素朴で飾らない信仰心、貧しく
ともそれを明るくはねかえしてしまう強さなど、いろんなことを考えさせてくれる民話のような気がしました。
人々の日々の暮らしの中で生まれ、語り伝えられてきた民話だからこそ、時を越えた人間のあたたかい営みや願いに、
ふれることができるのかもしれません。
売れずに残ったすげがさを、じいさまが地蔵様にかぶせてあげる場面です。
以前にもブログに書いたことがあるのですが、改めて取り上げてみたいと思います。
むかしむかし、あるところに、たいそうびんぼうで、その日その日をやっとくらしておった
じいさまとばあさまがおりました。ある年のおおみそか、じいさまとばあさまは もちこの
よういもできたらと考え、夏の間にかりとっていたすげでかさを五つつくります。
じいさまはそれをしょって町に売りに出かけます。町には大年の市が立っていて、正月買い
もんの人で大にぎわいでした。しかし、じいさまが「かさこはいらんか」と声をはりあげても
誰もふりむいてはくれません。しかたなく、じいさまは帰ることにしました。もちこも持たん
で帰れば、ばあさまはさぞかしがっかりするじゃろうのう。いつの間にか日も暮れかけ、じい
さまはとんぼりとんぼり町を出て、村の外れの野っ原まで来ました。
次からは、印象的な場面ですので原文のまま取り上げます。
風が出てきて、ひどいふぶきになりました。
ふと顔を上げると、道ばたにじぞうさまが六人立っていました。
おどうはなし、木のかげもなし、ふきっさらしの野っ原なもんで、じぞうさまはかたがわだけ
雪にうもれているのでした。
「おお、お気のどくにな。さぞつめたかろうのう。」
じいさまは、じぞうさまのおつむの雪をかきおとしました。
「こっちのじぞうさまは、どうじゃ。ほおべたにしみをこさえて。それからこのじぞうさまは
どうじゃ。はなからつららを下げてござらっしゃる。」
じいさまは、ぬれてつめたいじぞうさまのかたやらせなやらをなでました。
「そうじゃ。このかさこをかぶってくだされ。」
じいさまは、売りもののかさをじぞうさまにかぶせると、風でとばぬよう、しっかりあごのところで
むすんであげました。
ところが、じぞうさまの数は六人。かさは五つ。どうしても足りません。
「おらのでわりいが、こらえてくだされ。」
じいさまは、自分のつぎはぎの手ぬぐいをとると、いちばんしまいのじぞうさまにかぶせました。
「これでええ、これでええ。」
そこでやっと安心して、うちに帰りました。
以前、国語の公開研究会でこの場面を扱った2年生の授業を参観したことがありました。
じぞうさまの様子を見て、おつむの雪をかきおとし、ぬれてつめたいじぞうさまのかたやらせなやらをなで、
売りもののかさを風でとばぬようしっかりむすんであげ、最後のじぞうさまには自分のてぬぐいをかぶせて
あげた じいさまの行為を一つ一つていねいに取り上げた授業でした。じぞうさまに対するじいさまのやさ
しさ(孫に対するような)とともに、【お気のどくにな、…ござらっしゃる、かぶってくだされ】といったじい
さまのじぞうさまを敬う気持ち(信仰心)にまでふれる授業だったように記憶しています。
子どもたちも活発に意見を述べ、教師の発問や授業の流れも的確だったと思いましたが、何かもう一つ欠け
ているような印象がありました。それは、情景の読み取りに関わることでした。
じぞうさまの様子からも想像できることですが、そこはさえぎるもののないふきっさらしの野っ原で、さらに
ひどいふぶきだっことを考えると、じいさまの肩にも背中にも顔にも雪が吹き付け、凍えるような寒さの中で、
じいさまはじぞうさまの雪を指先でかきおとし、せなやらかたやらをなで、風でとばされぬようにかさをかぶせ、
手ぬぐいをかぶせたのではないでしょうか。寒さをしのぐ手ぬぐいまでとってじぞうさまにかぶせてしまい、じ
いさまの頭も顔も雪まみれになっていたのかもしれません。それでも「これでええ、これでええ。」とやっと安心
した表情で吹雪の中を帰っていくじいさまの背中や肩にも雪は降り積もっていたのかもしれません。そんな情景に
も目を向けて読んでいくと、じいさまの様子やその時の表情までがあざやかな絵になって見えてくるのではないで
しょうか。とんぼりとんぼり帰りかけたじいさまの沈んだ表情が、かさや手ぬぐいをかふぜてあげることで、穏や
かなやさしい笑顔に変わっていることにも気づいていけるような気がします。
この民話の最後には、かさと手ぬぐいをかぶせてくれたお礼に、じぞうさまたちがそりに米のもち、あわのもち、
みそだる、にんじん、ごんぼ、だいこんのかます、おかざりのまつなどを積んでじいさまとばあさまのうちに届ける
場面があります。
そのおかげで、じいさまとばあさまはよいお正月をむかえることができたのですが、不思議なことが一つあります。
じぞうさまたちがお礼を届ける際に、「六人のじぞうさ かさことってかぶせた じさまのうちはどこだ ばさまの
うちはどこだ」と歌っていたことです。かさをかぶせたのはじいさまだったわけですが、歌にはばあさまのことまでふ
れてあります。その理由は、もしばあさまがおじぞうさまの様子を見たら、きっとじいさまと同じようにかさをかぶせ
てくれるだろうとじぞうさまたちが考えたからなのでしょう。じいさまがかさをかぶせて帰ってきたとき、ばあさまは
かさが売れなかったことにいやな顔ひとつせず、こういいます。「おお、それはええことをしなすった。じぞうさまも、
この雪じゃさぞつめたかろうもん。…」このばあさまの言葉にあるように、寒さに凍えるようなじぞうさまを見たら、
ばあさまもじいさまと同じことをきっとしてくれただろうと、じぞうさまたちは考えたのだと思います。
また、こんな印象的な場面もありました。大みそかの夜、じいさまとばあさまは食べる物もないので、いっしょにもち
つきのまねごとをし、つけなをかみかみ、お湯を飲んで休む場面です。貧しい中にあってもそれを苦にしない明るさと強さ
を持った二人のあたたかい絆に、心の中まであたためられるような気がしてきます。
改めて読み返してみますと、近代化の流れの中で失われつつある人間としての優しさや素朴で飾らない信仰心、貧しく
ともそれを明るくはねかえしてしまう強さなど、いろんなことを考えさせてくれる民話のような気がしました。
人々の日々の暮らしの中で生まれ、語り伝えられてきた民話だからこそ、時を越えた人間のあたたかい営みや願いに、
ふれることができるのかもしれません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます