みち 6 ※1983年刊 「どきん」より
谷川 俊太郎
みちのおわったところでふりかえれば
みちはそこからはじまっています
ゆきついたそのせなかが
かえりみちをせおっている
でももどりたくない
もっとさきへ
あのやまをこえてゆきたい
たとえまいごになっても
まぼろしのように
うみなりがきこえます
もういっぽまえへでれば
そこはきりぎしのうえなのでしょうか
みちのおわりが,新たな道の始まりでもあるんですね。
そこをゴールと考えるか,その先の道を踏み出すのか。
「せおっているかえりみち」には,家族やたくさんの人との絆,それまで積み上げたきたもの,育んできたもの,求めてきたものが,すべて入った重さがあるのではないでしょうか。
その道をもどることは,決して恥ずかしいことではなく名誉ある撤退なのかもしれません。
それにしても,みちのおわりに立つと,迷ってしまいます。
新たな道へ踏み出すには,若さとたくさんの時間以上に,強いあこがれと固い決意が必要とされるのではないでしょうか。
きりぎしの上に立つことで,これまで歩いてきたみち・これから歩もうとするみち・そしてなにより今立っているみちが,はっきりと見えてくるのかもしれません。
肩書きの上ではなく人間として歩くみちの軌跡や在り方が…。
みち 8 ※1983年刊 「どきん」より
谷川 俊太郎
ひとばんのうちに
すべてのみちがきえてしまった!
おおきなみちもちいさなみちも
まっしろなゆきのしたに
みぎもないひだりもない
まえもなくうしろもない
どんなみちしるべもちずもない
どこまでもひろがるしろいせかい
どこへでもゆけるそのまぶしさに
こころはかえってたちすくむ
おおぞらへつづくひとすじのあしあとを
めをつむりゆめみながら
雪の積もった日には,妙に人の歩いたところではなく,誰も歩いたことのない雪面を歩いてみたくなったものです。未踏の一歩を自分の足で踏みしめることで,自分の道を自分の手で切り開いているような印象がありました。
人生という雪原に立った時,道をつくる主体が自分であるということに気付いた時には大きな戸惑いを感じ 「たちすくんだ」ものです。自由に どこへでも 自分の意志で その一歩を刻むことができるのですから。
今もその雪原に立ち,昔と変わることなく「おおぞらとつづくひとすじのあしあとを」ゆめみるときがあります。
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