あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

「風の市兵衛」を読んで

2018-08-14 10:23:38 | 日記
辻堂魁 作の「風の市兵衛」も、最新作「銀花」で 23作目となりました。
テレビドラマ「そろばん侍」として映像化もされ、市兵衛も人気者の一人となったようです。

前作で 両親を亡くした(母は病死、父はやむを得ない事情によって市兵衛に討たれる)幼い兄妹を引き取り、
二人を我が子のように大切に育てて来た市兵衛でしたが、二人の子の将来の幸せを考え、亡き母の実家である
北最上藩の金木家に託すことにしました。
二人の子を金木家で引き取る橋渡しをしたのが、二人の叔父であり、亡き母の弟でもあった江戸藩邸に仕える
金木脩でした。

今回は、その続編です。北最上藩の権力争いに巻き込まれた金木脩が斬られ、瀕死の重傷を負ってしまいます。
その脩の依頼により、市兵衛が北最上藩の城下にある金木家に赴くというストーリーです。
小弥太と織江の兄妹と市兵衛は久しぶりの再会を果たすのですが、その場面が印象的でした。
市兵衛にとっては、自分が斬らざるを得なかった兄妹の父:信夫平八のためにも、その子どもたちを守る役目を
果たす一心で北最上までやって来たのです。

その後の展開については省略しますが、この物語の中で市兵衛の語る言葉が、心に残ります。
市兵衛の人柄や生き方がにじみ出ている言葉で、私がこの作品に大きく惹かれる理由も、そこにあるような気が
しています。

興福寺で修行をして、風の剣を体得し、その後商いやそろばんを学び、酒造りや米作りを体験し、今はそろばん侍
の渡り用人として暮らす市兵衛は、「侍を捨てるつもりだったのですか」と問われ、次のように答えます。

『自分が何者かを、知りたかったのです。』
『…わたしは、年が明ければ四十一になります。未だ自分が何者か、知り得ません。侍を捨てきれず、
 商人にもなれず、ただもがきあがくのみです。』

また、「唐木さんほどの方が、なぜ、今のような生き方をなさっておられるのか…」という問いに対して、次のように
答えます。

『わたしは、無用の者です。しかしながら、夥しい無用によって用は支えられていると、わたしには
 思えてならないのです。剣術にも、学問にも、商いにも、米作りにも、酒づくりにも、雨や風や雪や
 渇きや飢えや、喜びや苦難や、わが叫びやため息にすら、わたしにはわけがあります。そして、用が
 あります。その用を語るにはわたしの言葉では足りず、道理には収まりきらず、ただわたしはそれらに
 真っすぐ向かうのみなのです。ゆえに、無用の者である自分を、悔やんだことはありません。』

無用の者であっても、用を支える夥しい無用の一つとして なくてはならない存在なのであり、生きる営
みの一つ一つに それぞれ意味があり、わが叫びやため息にすら わけがあり、用がある。
言葉では語り切れず道理には収まり切れない、目の前の用に向かって 真っすぐに立ち向かっていく。

市兵衛は、剣の達人であるとともにそろばん侍でもありますが、同時に自らの生き方や在り方を問い続ける
哲学侍でもあるのだと思いました。
さまざまな用に 真っすぐに立ち向かう 市兵衛の活躍が、これからも楽しみです。
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