桜井哲夫という詩人の存在は,新聞の記事『ニッポン人・脈・記 隔離の記憶7』を通して知りました。まず,掲載された桜井さんの写真を見て衝撃を受けました。記事の中でも,「桜井に会ったら,ほとんどの人は驚く。(ハンセン病で)左目を失い,右目は色が濁り,鼻は落ちくぼみ,指をすべて失った,その姿に。」とその外見を紹介しています。私も,その外見に驚いてしまったのです。しかし,よく見ると写真の桜井さんは,笑っているのです。写真には,3名が写っており,桜井さんの乗る車椅子を押している赤尾拓子さん,桜井さんの右わきにいる在日コリアンの金正美(キム・チョンミ)さんも,はじけるような笑顔です。この写真から,三人が深い信頼関係で結ばれていることを想像できます。講演や旅行(バチカン,韓国等海外にも出かけています)には,3人で出かけているとのことです。
それにしても,つらい人生を歩んでこられたのに,この屈託のない底抜けに明るい笑顔はどこから生まれてくるのだろう……と,強く思いました。
『破戒』という詩では,それまでの辛い思いと新たな決意を述べています。
破戒
桜井 哲夫
青森県北津軽郡鶴田町妙常崎
長峰利造 大正十三年七月九日生まれ
父太兵衛 母はる
癩園への旅立ちの朝
顔を歪めて父は言った
たとえ口を裂かれるともこのことだけは決して言うな
父の戒めを守って四十五年
俺は死んだ人のように口を開かなかった
だが六月二十五日ライを正しく理解する日が来るたびに思うのだ
俺が固く口を閉ざしていて誰に癩を正しく理解せよと言うのか
俺は戒めの口を開こう
俺は罪によって生まれたのでもなければ悪によって病人でいるのでもないのだから
父よあの朝あなたは許してくれと言った
そして今私はあなたに許してくださいと言う
すべての人に理解をもとめてあなたの戒めを破るのだから
詩人桜井哲夫は,詩にありますように,1924年7月10日に青森県に生まれ,本名は長峰利造です。1941年17歳の時に,病気療養のため,父の戒めを胸に刻んで,群馬県にある国立療養所栗生楽泉園に入園します。母には「しがまっこ(つらら)が解けるころには帰ってこられるから」と言われたものの,そのまま群馬で幾度となく春を迎え,29歳の時には失明し,津軽はますます遠くなります。その間,園内で妻子を得ますが,妻にも子どもにも先立たれてしまいます。失意のどんぞこにいた59歳で詩作を始めます。
この破戒の詩にあるように,国の誤った医療政策のために,ハンセン病にかかった者は,家族と一緒に暮らすことは許されず,療養施設にその存在すら否定されるように隔離されました。当時はハンセン病は強い伝染力のある病気と考えられていたため,父が顔を歪めて,本名や出身地,両親の名前を公言しないように戒めたのも,ハンセン病にかかったものが家族にいたと知れることで,そこで家族として生きていくことができなくなることを心配したためと考えられます。しかし本人にしてみれば,自分の本名さえ名のれないということは,自分自身の存在を否定されたも同然の辛い思いだったのではないかと思います。しかもその思いを四十五年間も背負い続けたのですから……。詩にある「罪によって生まれた」のでもなく「悪によって病人でいる」わけでもないという言葉に,自分の存在そのものを語ることが出来ず,生まれてきたこと自体を否定的に受け止めてきた,深い深い悲しみを感じます。でも,そんな環境の中で生きてきながら,現在85歳の詩人桜井哲夫さんは,底抜けに元気なのです。
金正美(キム・チョンミ)さんが,桜井さんにあったのは15年前のこと。療養所で開かれた詩話会にたまたま参加したチョンミさんは,そこで桜井さんと隣同士になります。自分自身の存在について悩んできたチョンミさんに,桜井さんは語りかけます。「あんた,在日の子だろう。おれたちは差別されているが施設のなかにいたら安心だけど,あんたはこれから大変だよ。つらくなったら遊びにおいで。」この一言を通して,チョンミさんは『どんな境遇におかれても他人を気遣うことができる人がいるのか』と心を揺さぶられたそうです。それ以来,チョンミさんは桜井さんの身近にいて,桜井さんを隔離された世界から外に連れ出し,外国にも出かけます。
初めて二人で旅に出た先は,桜井さんのふるさと青森でした。津軽の実家には,甥の長峰誠さんが跡を継いでいました。墓参りを一緒にした長峰さんは『おじさんだけじゃなく,みんな生まれた場所に帰りたいでしょう。本当の名前に戻したいでしょう。自分だったらそう思う。今からでも取り戻せるものがあるかもしれない。是非長峰利造の本名で帰ってきてください。おじさんを応援していますから』と話しました。甥の言葉を聞きながら,ふるさとがふるさとになったと,桜井さんは実感したのではないでしょうか。
その後,旅には,施設で看護師をしていた赤尾さんも加わるようになりました。今年の春は,またふるさとの津軽に行く予定とのことです。
おじぎ草
桜井 哲夫
夏空を震わせて
白樺の幹に鳴く蝉に
おじぎ草がおじぎする
包帯を巻いた指で
おじぎ草に触れると
おじぎ草がおじぎする
指を奪った「らい」に
指のない手を合わせ
おじぎ草のようにおじぎした
※詩は,桜井哲夫詩集・土曜美術社出版販売 より書き出しました。
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