あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

「知床旅情」の歌をめぐる物語

2018-01-29 18:39:16 | 日記
新聞の「もういちど流行歌」というコーナーに、「知床旅情」の歌が取り上げられ、その歌い手でもある加藤登紀子さんの
インタビュー記事が掲載されていました。

昨年末に、加藤登紀子さんの『ほろ酔いコンサート』があり、始まる前と休憩の際に 場外に用意された清酒:一ノ蔵
を味わいながら、私もほろ酔い気分でコンサートを楽しみました。「琵琶湖周航の歌」や「知床旅情」は、お登紀さんの
リードで、観客も一体となって歌いました。特に「知床旅情」は、学生時代に北海道を一人旅し、知床半島や知床五湖を
歩いた時の情景が浮かび、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。

そんなこともあり興味深く記事を読んでみると、新たな発見がありました。

1968年3月、シャンソン歌手としてデビューして3年目に、加藤さんは 真夜中のビルの屋上で 初めて「知床旅情」を
耳にしたとのこと。歌い手は、学生運動の当時の活動家であり後に夫となった藤本敏夫さん。
その朗々とした歌声を聞き、加藤さんは歌手としての自分の在り方を問い直すほど(ドレスで着飾り、つけまつげで目を大きく
見せ、舞台でシャンソンを歌っている自分は一体、何者なのって)、心根にグサリと突き刺さる衝撃を受けたそうです。
「借り物ではなく、心底から歌いたい曲をみずから書く、シンガー・ソングライターに生まれ変わる転機をもたらす出来事」
になったそうです。
夫となった藤本さんと「知床旅情」との出会いがなければ、加藤登紀子というシンガー・ソングライターは誕生しなかったのかも
しれないと思いました。まさに運命の出会いとなったのですね。

この歌の作詞作曲は森繁久彌さん。1960年に映画「地の涯に生きるもの」の撮影で、知床半島の斜里町と羅臼村(現・羅臼町)に
長期逗留し、その際に地元民の方から惜しみない協力をいただき、そのことにいたく感激し、置き土産につくった曲だそうです。
レコーディングは、65年まで行われなかったそうですが、この間にも北海道を旅した人たちがこの歌を知り、口コミで道外まで流布
されたそうです。藤村さんは京都のバーでこの歌を聞き覚えたとのこと。

加藤さんが、70年にカバーしたシングルレコードは、そのこともあり前宣伝もないのにミリオンセラーを記録したとのこと。
1971年3月のオリコン調査によるシングルレコード売上ランキングで、第1位が「知床旅情」でした。

この歌がヒットした理由について、加藤さんは次のように語っています。
「高度成長期の始まりとともに故郷を捨てて出てきた人たちが都会にあふれ、気がつけばディスカバージャパンの時代になっていた。
 あの歌には日本の風土を形づくっている要素がすべて入っています。人びとの心の中にある共通の土壌に落ちた種が、やがて芽を
 吹き、みるみる育つようにヒットしたんです。」

歌を通して思い描く世界はさまざまであっても、どこか郷愁を誘い、懐かしい友や景色、思い出が浮かんでくるような気がします。
ほろ酔いコンサートで味わった一体感は、そんな想いをみんなで共有し合っているような感動でもありました。

森繁さんは 加藤さんの歌を聞いて、『君は、歌はうまくない。でも心で歌っているな』と認めてくれたそうです。

この記事を読んで、ますます「知床旅情」が好きになりました。
下手なギターを弾きながら、今宵は 森繁さんと藤本さんを偲び 心で歌ってみたいと思います。
 


    知床旅情

           歌:加藤 登紀子 
          作詞:森繁 久彌
          作曲:森繁 久彌


  知床の岬に はまなすの咲くころ
  思い出しておくれ 俺たちの事を
  飲んで騒いで 丘にのぼれば
  はるかクナシリに 白夜は明ける

  旅の情けか 飲むほどにさまよい
  浜に出てみれば 月は照る波の上
  今宵こそ君を 抱きしめんと
  岩かげに寄れば ピリカが笑う

  別れの日は来た ラウスの村にも
  君は出てゆく 峠をこえて
  忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
  私を泣かすな 白いかもめよ
  白いかもめよ
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