Apu の All That I Am

公開備忘録のような投稿です。もしご興味をお持ち頂けましたら、PC版でご覧下さいますと嬉しいです!

「理趣経と私」と言うトピックで

2007年07月02日 | あぷ こころの風景 思索

ミクシーで投稿した文ですが、こちらにも投稿します。


「理趣経と私」そして「なぜ理趣経に関心を持ったか?」と言うことですが、私の場合そもそもが親の影響と申しましょうか、私自身が和歌山県人のクウォーターということもあり、ある時期、誰もが一度はそうしたくなるであろう自己のアイデンティティを求め紀州へ一人で出掛け、初めて高野山に上ったのが発端と思います。その後、幾度かご縁ある方々を高野山にお連れする機会を頂いたことが、私自身が真言宗に興味を持ち始めた理由であるのは言うまでもありません。時の先達から様々お話を伺う中、日々読誦されている理趣経があられもなく人間欲求(しかも本能的欲求!までも…)を肯定してることを知った時は正直かなりの衝撃でした。


当時、奥の院や宿坊での朝の勤行の雰囲気が忘れられなかった私は、帰ってから理趣経のCDと真言宗常用経典を買い求め見よう見まね(…と言いますか聴きよう聴きまね?)で読経を始めました。全くのド素人が雰囲気に酔って唱えるナンチャッテな読経でしたが、本人にとっては唱え終えると非常に清々しく満ち足りた感覚を覚えたものでした。そして当然の如く何冊かの理趣経解釈本も購入し読み始めたのでしたが…。実は関連する書籍を読み進めると僧でない者が理趣経を唱えたり、理解し観想すること、所謂その「行」を行うことは「越三昧耶(おつさんまや・所謂ご法度!)」であり、法が薄められ大きな間違いとなるとの事から一般人には不可である事を知りました。ならば「…何故、書籍として解釈本が販売され「声明」と称して理趣経のCDが販売されているのか?!!!」などとは思わず素直に自分を責めたものでした(失笑)。


密教は師匠と弟子との間で受け継がれるものと聞いています。高野山で結縁灌頂(金剛曼荼羅・退蔵曼荼羅)とお受戒(※結縁灌頂中にも行われていましたが)を済ませただけですが、現在は私の中での師匠と思しき方のご指導により十善の御教えを出来るだけ(!)守り、少しずつ理解を深めてい最中でございます。


「十七清浄句」につきましては様々に意訳や注釈もございますが、それらは総て「菩薩の位」との記述に在るとおりで、我々「人間の位」の話ではないと私は思っています。ただ、本来それぞれが持つ仏性に付帯する事項として、またその方便として理趣経の冒頭に「十七清浄句」があるのであり、間違っていけないのは「官能に感応」する事だと思います。密教では「三密加持」と言い『身口意(しんくい)』による三密行を行い、仏の「加」と行者の「持」が合一した状態が重要とされているらしく、それこそ「行」をなさず思い込みで理解することの危うさが常に背後に付き纏っているのがこの「理趣経」です。


私もランナーズハイは経験したことはございませんが(例えとしてのですが)ランナーズハイに「意密」は含まれていないと思います。またお唱えすることで仏の波動を自らの声で発した瞬間の「口密」のそれには仏との合一を強烈に後押しする物が実際にあります。そして秘して印契を組む「身密」もその組み方がなされる時にも仏の観想を手助けする物と聞いております(…と申しますのは、私自身は印契の伝授を受けておりませんので)。要するに「経」の文言だけによる理解には限界があるということ、しかも少々の「行」ではその境地は恐らく辿り着けるものではなく、まして「行」なされない感覚(特に肉体レベルに囚われ、間違った思い込みに走ること)だけの解釈は大変危険極まりないということは常々承知しておく必要があると私は思います。


お大師様の「三密加持すれば速疾に顕る(即身成仏儀)」にもあります通り、生きながらにして成仏するという真言密教の真髄である『即身成仏』。その為に必要不可欠な『三密加持』、及び日々読誦される「理趣経」を初めとする様々な仏典や陀羅尼・真言。最終的には仏との合一(入我我入)を目指す訳ですが、その過程において自らが「金剛薩た」であり「大日如来」であるという事実の観得の一過程として「十七清浄句」があるに過ぎず(「五秘密曼荼羅」等から)、所謂「十七清浄句」は方便であると私は思うのです。この自我⇒大日如来への階梯には「倶舎」「唯識」「空観」をも当然必要とし、しかもそれは「三密加持」という行の中にある…。この仏との合一による神秘の実在をシッカリと掴むには「十七清浄句」を入口とし自らが「金剛薩た」であると言うこと、また「百字の偈」を通じ最終的には自らが「大日如来」である(も~ホントくどいですが^^;)よ…と道筋があると思われる『金剛頂経第六会・大樂金剛不空眞實三摩耶經(理趣経)』が結果、密教には最適とされたのではないか?…と私は越三昧耶の分際(笑)で推測するのです。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 入梅の翌日 | トップ | 真言密教とは »
最新の画像もっと見る

あぷ こころの風景 思索」カテゴリの最新記事