道長は中宮彰子の頭頂部の髪を少しだけ削ぎ、形ばかりだが出家の儀式を施しました。万が一産褥死しても、極楽往生できるようにということです。中宮彰子は、定子と同じようにこのまま亡くなるのではないか。重苦しい空気が垂れ込める中、1008年九月十一日正午頃、中宮彰子はようやく御子を産み落とされました。ですがまだ油断はできません。胎衣≪たいい 胎児を包んでいた膜や胎盤≫が出るまでは。定子はこれで亡くなったのです。緊張が走り、土御門殿の広い寝殿の端から端までひしめいた僧も女房も官人も、もちろん道長一家も、いま一度どよめいて額を床にこすりつけます。
人々の祈りはかないました。中宮彰子は無事に出産を終えました。しかも、生まれた御子は男子でした。
― 午(むま)の時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。平らかにおはします嬉しさの類ひも無きに、男にさへおはしましける喜び、いかがはなのめならむ。 ―
[現代語訳
正午に、空晴れて朝日がぱっと差したような気がした。安産でいらっしゃった嬉しさは何物にも比べ難いが、その上生まれたのが男子とは、いやもうどうして普通の喜びようでいられようか。]
道長と倫子の、ほっとした様子、二人は早速別室に赴き、大役を果たした僧・医師・陰陽師どもに褒美を渡される。
それにしても何と強運の道長でしょうか。今や道長を外戚とする、血のつながった皇子が誕生したのです。これでようやく摂政(天皇のできることを全て代役できる地位)という天に続く梯子が見え始めたのです。上りつめるまでに必要なことは、一つだけです。この御子を、元服前、つまり自ら政治を執れるようになる前に、幼帝として即位させることです。
中宮彰子は、十三歳の年には歴史上最も若くして中宮の位に就き、今は皇子の将来が囁かれてすっかり「国の母」、帝の母扱いです。ですが、この人はただの産婦でもあります。紫式部は畏れ多くもその寝顔に見入りました。
― 御帳のうちを覗きまゐりたれば、かく国の親ともて騒がれ給ひ、うるわしき御けしきにも見えさせ給はず、すこしうち悩み、面やせて、おほとのごもれる御有様、雲よりもあえかに、若くうつくしげなり。小さき灯炉を、御帳のうちにかけたれば、くまもなきに、いとどしき御色あひの、そこひもしらずきよらなるに、こちたき御ぐしは、結ひてまさらせ給ふわざなりけりと思ふ。かけまくもいとさらなれば、えぞかきつづけ侍らぬ。 ―
[現代語訳
紫式部が御帳台のなかを覗き込むと、中宮様はこのように「国の母」と騒がれるような押しも押されもしないご様子とは全然見受けられません。少しご機嫌が悪そうで、面やつれしてお休みです。その姿はいつもより弱々しく、若く、愛らしげです。小さな灯りを帳台の中に掛けてありますので、それに照らされた肌色は美しく、底知れぬ透明感を漂わさています。また髪の豊かさが、床姿の結髪ではいっそう目立つものだと感じられます。あらためて口にするのも今さらのことですし、もう書き続けられませんわ。]
いたいけな、そしてことのほか健気な産婦の、中宮彰子。作らぬ寝姿のあどけなさは、だからこそ紫式部には、ひときわの輝きを帯びて感じられました。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り