1 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 1イ まえがき 」
新シリーズです。
第1章
ルーズベルト(FDR)が敷いた対日戦争開戦へのレール 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
1イ まえがき
1ロ アメリカの決意、日本の一人芝居
1ハ ルーズベルト(FDR)による敵対政策の始まり
1ニ なぜルーズベルト(FDR)は、中国に肩入れしたか
1ホ 中国空軍機による九州来襲
1ヘ 日本の外交暗号をすべて解読していたアメリカ
1 ト 中国軍に偽装した日本本土空襲計画
1チ 日本を戦争におびき寄せた本当の理由
1リ ルーズベルト(FDR)を喜ばせた三国同盟の締結
1ヌ 着々と進む日本追い詰め政策
1ル 開戦五か月前に日本攻撃を承認した文書
1ヲ 「日本という赤子をあやす」
1ヨ 直前まで対米戦争を想定していなかった日本
1タ 日米首脳会談に望みをかけた近衛首相
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1イ まえがき
1945(昭和20)年8月に終わった日米戦争とは、いったい何だったのだろうか。日本が侵略国家であって、その責任を一方的に負わねばならないのだろうか。
日本は1941(昭和16)年12月に、アメリカ、イギリス、オランダに対して開戦したが、はたして日本が加害者であって、米英蘭の三ヶ国と、その植民地支配を被っていたアジア地域が、被害者だったといえるのだろうか。
あの戦争へ導いた歴史を、公平に検証すれば、アメリカが日本に対して仕掛けた戦争だった。
日本国民にとって、先の対米戦争と幕末における明治維新が、日本の近代化における二つのきわめて重い体験となった。
明治維新が「御維新」と呼ばれ、昭和20年の夏までの日本をつくったように、先の敗戦が日本を再び大きく作り替えた。
日本は昭和に入って日米関係が対立を増してゆくなかで、困難を打開しようと、真剣な努力を続けたのにもかかわらず、追い詰められていった。
本書は日米開戦に至るまで時系列的に、日本とアメリカの両国の記録を用いて、東京とワシントンにおいて何が起こっていたのか、対比したものである。
狂乱の時代だった。日本はアメリカによって、翻弄された。
東郷重徳(しげのり)外相は、誠意の人だった。「ハル・ノート(投稿者補足;今では米国中枢部にいたソ連スパイの発案と判明しています)」を受領した時に、「自分は目も眩むばかりの失望に撃たれた」と述べ、「米国が今までの経緯および一致せる範囲を凡(すべ)て無視し、従来とった尤(もっと)も強硬な態度をさえ超えた要求をここに持ち出したのは、明らかに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、唯日本に全面的屈服を強要するものである。(略)これは日本の自殺と等しい。(略)もはや立ち上がる外ないと云うことであった」と、A級戦犯として囚われて、獄中で病死する前に記した。
開戦の詔勅が「今ヤ不幸ニシテ米英両国ト戦端を開クニ至ル誠ニ已ムヲ得ザルモノアリ豈(あに;どうして)朕ガ志ナランヤ」と述べ、「事既ニ此処ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為決然起ッテ一切ノ障害ヲ破砕スルノ外ナキナリ」という言葉が続くが、今日読んでも、胸が熱くなる。
本書の共同執筆者であるヘンリー・S・ストークス氏は、イギリスの大記者であるが、アメリカはペリーの浦賀来航以来、奢る白人優位主義と、キリスト教世界観によって駆られて、日本を屈従させようとしてきたと、論じている。ペリーは「遠征記」のなかで、日本を「国際社会の一員にし、われわれの宗教の恩恵のもとに置く事業は、始まったばかりである」と、述べている。
著者は幕吏とペリー一行が、仏僧が法事に用いるさまざまな椅子に座って相対している銅版画を、私蔵している(幕府に不平等条約を強いた時の会議)。これは、江戸時代の日本を葬る法会となった。
いや、今日の日本のありかたを見ると、日本そのものを葬る法会だったのではなかったのか。
参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長