31 なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか 「 2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画 」
第2章
米政府が秘匿した真珠湾の真実 一部引用編集簡略版
本章は以下の内容を投稿予定です。
2イ 開戦を前にした昭和天皇の懊悩
2ロ 悲痛の極み、宮中御前会議
2ハ 山本五十六の無責任発言
2ニ アメリカに腰抜けだった連絡会議の結論
2ホ 日本艦隊の攻撃を待ちのぞむアメリカ
2ヘ 開戦強要の最後の一手”ハル・ノート”
2 ト その時、ルーズベルト(FDR)は何をしていたか
2チ なぜ新鋭艦が真珠湾にいなかったのか
2リ 万策尽きての開戦決定
2ヌ 暗号解読で、事前にすべてを承知していたアメリカ政府
2ル ハワイにだけは情報を伝えなかった謎
2ヲ アメリカの参戦決定と、チャーチルの感激
2ヨ ルーズベルト(FDR)は、いかにして四選を果たしたか
2タ 終戦の方策を考える余裕すらなかった日本
2レ アメリカで追及された真珠湾奇襲の真相
2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
2ツ 日本国憲法にこめたアメリカの狙い
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2ソ 終戦一年半前に作られた日本占領統治計画
日本は1945(昭和20)年8月15日に、力尽きて敗れた。開戦の年の9月7日の御前会議で、永野軍令部総長が「戦うも亡国を免れない」と発言したのが、現実となった。
9月2日に、東京湾に浮かぶ戦艦「ミズーリ」の上甲板で、降伏文書調印式が行われた。
ペリーが1853(嘉永6)年に江戸湾に黒船を率いて侵入して、幕府を威圧した時に、旗艦「サスケハナ」が投錨したのも、やはり同じ場所だった。
その四年十一ヵ月前に、東京湾で帝国海軍の最後の観艦式となった「紀元二千六百年特別観艦式」が催され、「ミズーリ」が停泊したほぼ同じ場所から、天皇がお召艦「比叡」の艦橋に立たれて、連合艦隊の艦列を観閲されていた。
戦艦「比叡」は1914(大正3)年に建造され、1942(昭和17)年11月12日に、ガダルカナル沖で空襲を受けて大破したうえで、自沈した。
日本がアメリカに対して決起して戦ったことが、賢明だったのか、愚かであったのか、大いに論じなければならない。
だが、日本国民をあげて善戦敢闘した武勇は、永く称えなければならない。武徳を称えない国は、かならず滅びる。
天皇は戦時下を通して、つねに平和を念じられた。
軍は開戦とともに、つぎつぎと赫々(かくかく:赤く熱気を発するさま)たる勝利を、あげていった。
1942(昭和17)年1月26日に、宮城(きゅうじょう:当時、皇居がそう呼ばれた)で宮中歌会始が催されるまでに、大英帝国が誇る戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパレス」をマレー半島沖において撃沈し、香港とフィリピンのマニラを占領した。
新年歌会始の御題は、「連峯雲」だった。
天皇は「峯つづきおほふむら雲ふく風の はやくはらへとたゝ(ただ)いのるなり」と、詠まれた。
昭和天皇は大戦中を通じて、数多くの御歌をつくられたが、戦争を称えたり、好戦的なものが、一つツしてなかった。
著者は1950年代から70年代にかけて、対日占領に当たった連合軍総司令部や、大戦中の政権の幹部の多くとアメリカで会って、当時を回想してもらった。
日本国憲法の制定の過程にについて質したなかで、先の特別研究部(SR)に行きついた。
日米開戦後に、国務省の特別研究部(SR)に、陸軍が加わって、戦後計画委員会となった。1944(昭和19)年3月に報告書が、まとめられた。
その骨子は、日本をアメリカによる単独占領下に置いて、日本の徹底的な非武装化と、「民主化」を行ない、後になって日本が講和条約によって独立を回復しても、名目的なものとして、実質上はアメリカの管理下に置くというものだった。
天皇を占領下で在位させて利用し、日本政府を存続させて、間接統治することが盛り込まれた。
二十カ月後に始まった対日占領は、戦後計画委員会による筋書きに、沿ったものとなった。
参考:加瀬英明著「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」
加藤英明氏は「ブリタニカ国際大百科事典」初代編集長