gooブログのテーマ探し!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

4-2.伊勢は温子の召(め)しにより再出仕

2022-08-18 11:04:28 | 殿上の優女 小野小町と伊勢
4-2.伊勢は温子の召(め)しにより再出仕
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版

 そうこうしながら、伊勢は一年ほど大和に引き籠っていただろうか。伊勢にとっては最も侘しい人生の時期であったらしい。しかし、伊勢のいない日常を最もさびしく思ったのは女御温子その人であったらしい。女御の御所の沈滞はそのまま藤原宗家の勢いにつながる。伊勢は温子の召しに応じて再出仕することになった。伊勢はこの間に驚くほど人間的に成長をとげていたと思われる。出仕するとすぐ、仲平(なかひら)は関係の回復を求め、その兄の時平もまた、弟よりは自分の方が信頼できると申し送ってきた。

 「伊勢集」ではこの辺の詞書も詳しく、志も高く得意げである。時平からの文はいかにもあからさまで、「ー-いまはそのをとこを、をとことたのみたまふか。あなおさな、我をおもひたまへ」などといってきたが、伊勢は結局どちらとも文を交わしあうだけの仲にとどめて、夜を共にする交際には発展させなかった。
 しかし、伊勢の名声は、時平、仲平兄弟の愛の競いあいによっていっそう高まり、時平、仲平もまたそれぞれのこころざしを見せようとしていた。


 時平は、「あなたの愛が薄いので、世を詫びて吉野の山に入ります」などと、本当は興福寺の継摩会(ゆいまえ:維摩経を講ずる法会)に行くのに、わざとこんなことを言ってよこす。仲平も競って、「今宵こそ契りを復活させよう」というが、伊勢は、一度失敗した仲平にはついに再び許すことをしなかった。仲平は「ふりにし床(使い古しの床?)」をもう一度「うちはら」って寝ようと誘ったが、伊勢は歌で返している。

  わたつうみとなりにしとこをいまさらに払はば袖やあはときえなむ
(涙の海となってしまった床を、今さらに袖で打ち払ってみたところで、その袖もまた涙の海の泡ともなり、淡々しい契りとなるでしょうよ)

つづく(「伊勢」と「小野小町」をランダムに選んでいきます。つぎも「伊勢」の予定)

4-1.後宮の女房 伊勢

2022-08-17 10:17:24 | 殿上の優女 小野小町と伊勢
4-1.後宮の女房 伊勢
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版

 ところで、小町のあとの才媛といえば伊勢である。色好みの平中(へいちゅう:元良親王の色好みが上流階級の豪奢で放恣な華やぎがあったのに比べ、平中はずっと庶民に近い、しばしば失態を演じ、あまり恰好よいことばかりではなかったが、人気があった)を散々に翻弄した伊勢は、「伊勢集」の冒頭の詞書によると、その父伊勢守藤原継蔭も娘の才を高く評価していたのであろう。「平凡な男と結婚させたくない」と考えていたらしく、宇多院の女御温子のもとに女房として出仕させた。

 温子の父は関白基経、兄に時平、仲平(なかひら)がある。藤原氏の権勢にまかせた華やかな後宮であったと想像される。伊勢の社交的才質はここを舞台として惜しみなく発揮されたと思われるが、まずは仲平との恋が注目される。

 この権門(官位高く権勢のある家柄)の次男との恋を、国守級の官人(受領)の父には不似合いな間柄とみて不安を感じていたらしい。そして、その予想は的中して、仲平はその身分にふさわしい家柄の姫君の婿となり伊勢との交流は絶えてしまった。伊勢は恥じて父の任国である大和に引退する決意を固め、最後の歌を仲平に届けている。


  三輪の山いかに待ち見む年経(ふ)ともたづぬる人もあらじと思へば
(私はもう大和に引退致します。そこに坐(いま)す三輪の神はどれほどあなたのおいでを待つことでしょうか。私ももちろんですが、たぶん何年待っても訪(おとの)うてくださることはないと思いますと、歎(なげ)かれてなりません)


 これは当時、すでに古歌として伝えられていた三輪地方の歌、「わが庵は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門」を本歌として読まれており、古雅な優しさをたたえている。直截に「とぶらい来ませ」とは言えない捨てられた女の立場からの未練の情を内攻させながら、二句切れの詠嘆に屈折した心情をにじませ、終わりまで詠み弱りのない落ち着いた声調を保っている。

 こうして別れるとなると未練が生まれるものか、仲平は奈良坂まであとを追ってきて返歌を届けた。

  もろこしの吉野の山にこもるとも思はむひとにわれおくれめや
(もろこし(唐土:中国)ほどに遠く思われる吉野の山に引き籠ってしまっても、私の思いびとのあなたにおくれて都にとどまるものではありませんよ)

つづく(「伊勢」と「小野小町」をランダムに選んでいきます。つぎも「伊勢」の予定)

3.小野小町の夢の歌

2022-08-16 09:34:55 | 殿上の優女 小野小町と伊勢
3.小野小町の夢の歌
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略改変版

 小町の歌は「古今集」に十八首収録されているが、そのうち六首は「夢」に逢う恋をうたっている。どれも小町の代表歌として人口に膾炙したものばかりだ。「小町集」や「小野小町集」にはそのほかにも「夢」の恋がうたわれているので、小町の恋は現実にはかなり不可能なあこがれ、ある理想的な美と精神の高貴性を体現していると考えられるようになる。

  思いつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
(現代語訳例;思いながら眠りについたので、(あの人が)夢に現れたのだろうか。もし夢とわかっていたなら(夢から)覚めなかったろうに)

  うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき
(現代語訳例;うたた寝に恋しい人を夢に見てからというもの、夢というものを頼みにするようになりました)

  いとせめて恋しき時はうばたまの夜の衣を返してぞ着る
(現代語訳例;とっても切実にあなたを恋しく思う夜は、“好きな人が夢に出てくる”と噂のおまじないに頼って、夜着を裏返して寝ています)

 三首は「古今集」の「恋二」の巻頭を飾るもので、ここでは恋の情趣が初々しいあこがれから、もう少し立ち入った思慕へと発展している。しかしなお現実には遂げられず、「夢」という魂の通い路にからくもその人を呼び寄せる古代の信仰を頼りとした、夢中の出会いへの期待となっている。はかなく、せつない恋の思いである。

 「夢」という薄明の精神の空間に寄せる思いは、時代を遡れば遡るだけ深く、そこに表れる半現実の思索の象(かたち)に、先行きを占う夢解きも行われていた。この小町の歌にあるように、夜の衣を裏返しに着て寝れば、夢の中で思う人に逢えるという俗信も、半ば風流ごとと化しながら、なお一般的な哀切さを誘う期待として歌にうたわれていたのである。

 「思いつつ」の歌は推量の「らむ」を三句の終わりに据えたソフトな三句切れであるが、そのなめらかさに楔(くさび)を打ち込むように第二句に「寝ればや人の」と疑問を含む感動の「や」を挿入して句割れの調子を作っている。その上で下句のなだらかな情も結句を詠嘆の「を」止めにすることによって、いかにも女性的な未練の思いが漂うなど、助詞・助動詞の効用を生かしたアピールの優艶さにおいて出色の一首といえるだろう。この歌をみたある人が「あはれなりけること」と感動してくれたので詠んだのが二首目の歌だ。

 「うたた寝に」の歌も三句切れだが、上下のつづきがらは順接で、結句の「頼みそめてき」が、夢を超えて、まるで恋人そのものの心を頼みそめるようにひびくところに巧緻なテクニックを感じさせる。この時、初句に置いた「うたた寝」というはかない夢の場が効果的で、「頼みそめてき」にいっそう哀憐(あいれん)感が加わるだろう。千年以上も昔の小町の情念が今に蘇り、修羅能(しゅらのう:平家物語の登場人物の霊が現れ、自分の最期の場面や、死後の苦しみを見せる能)ながらひととき優艶な気配が漂うところだ。声に乗せたときの言葉の効果は意味を越えて心にひびく。

 「夜の衣を返してぞ」の歌については、「いとせめて恋しき時は」と言いさし、三句に「うばたまの」と枕詞を挿入して一呼吸おき、言葉の流れを変えている。そして「夜の衣」を枕詞つきの丁寧さで提出。一種のクローズアップである。ためにこの「夜の衣」は、「いとせめて恋しき時」に呼応する艶な役割を担い、幻想的なエロスを漂わせる。

 小町の歌はあまり凝った技巧があるものより、物言いの呼気を五七音にこめておっとりうたったようにみえるこれらの歌に、ふっくらした女の叙情があって好ましい。

(非常に難解な解説書と再認識。次からは「伊勢」と「小町」をランダムに選んでいきます)

1.小野小町の実像に迫る

2022-08-15 11:17:46 | 殿上の優女 小野小町と伊勢
1.小野小町の実像に迫る
 馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略版

 小野小町の名を知らない人はいない。しかし、その驕慢(きょうまん:おごり高ぶって、人をあなどること)華麗な恋の伝説と老残襤褸(ぼろ)の放浪伝説に彩られた小野小町の実像に少しでも近づこうとするなら、歌集を繙(ひもと)いてその歌に接するしかないだろう。
 歌集は恋の歌に埋まっているとはいえ、世間の噂を気にして悩ましい小町もいるし、夢の中で逢う恋にときめく可憐な小町もいる。恋人から忘れられたり、心変わりされたりして悲しむ小町もいる。
 そうした中にいかにも色好みの女の典型をみるような、華やかな恋の挑みの歌が二、三まじっているのが、伝説に発展する小町の片鱗をうかがわせて何とも魅力的だ。

 詞書の詳しい「後撰集」で見よう。

   いその神(上)といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、
   夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、この寺に遍昭
   侍りと人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍
   りける

  岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に貸さなん 小野小町

   返し

  世をそむく苔の衣はただ一重貸さねば疎しいざ二人寝ん 遍昭

 鮮やかさ、華やかさ、目もさめるような応答である。遍昭(へんじょう)は良岑(よしみね)宗貞、仁明(にんみょう)天皇の蔵人頭(くろうどのかしら)として側近に仕えた人であるし、小町も同天皇の宮人であった。宗貞が天皇の死に準じて出家し遍昭となったのは嘉祥三年(850)、三十五歳、仁明天皇四十一歳である。
 小町は何歳ぐらいだったのか。すでに宮中を出て自由なくらしに入っていたものと思われる。「大和物語」によれば、出家した良峯宗貞は比叡山に上る前で、みすぼらしい身なりで、ただ読経の声はいかにも尊げに陀羅尼(だらに)を読んでいたと劇的に書いている。小町とはむろん知らない間柄ではなかったはずで、この歌もよく気心を知り合った親しい仲の贈答とみえる。

 たまたま同じ寺に籠っていた歌友に、「ここ石上(いそのかみ)の寺にお籠りしていましたが、その名のとおり石の上の旅寝はとても寒いです。あなたの衣を貸してください」と申し送る。出家して修行中の歌友に、その衣を着たいということは明らかに戯笑的挑発であるが、出家後の宗貞を「心見むとて」と詞書されたところが面白い。「試みんとて」でもほぼ同じことだが、出家した宗貞の風流心のありかを見たいという問いかけである。のちに仏教界の欲望を集めて僧正に任ぜられる遍昭の飄逸の返歌のことばは、ここからすでに後半生を特色づける洒脱な世界が始まっていたというような面白さである。

 「世を背き出家した私の僧衣はただ一つしかありません。寒いあなたにそれをお貸ししなければ情けしらずと思われましょう。さあさあ、御一緒にこの衣を掛けて寝るといたしましょうか」ということだ。美女と僧の風流の応答の耳目を驚かすに十分な一場面である。

 場を華やかせ人の心をいきいきと引きつけずにはいない小町の歌ことばは、この応答をみてもわかるように、場に即応する物言いの才(ざえ)のみごとさにあったといえる。
 宮廷女流として小町の流れを受けた伊勢が内面を掘り下げたことば技をもったのに対し、ことがらの目新しさ、着想の面白さの方に主眼がある大胆さが魅力の小町がここにはいる。

つづく(次回は、「2.小野小町の夢の歌」の予定)